久保田敏著作リスト



No. 1
標題:ソ連旅行訪問記/副標題:No:連載22
著者:久保田敏 著 /誌名:ひろしま市民新聞
巻号:刊年:1977.4〜/頁:標題関連:



No.2
標題:少数派から多数派へ/副標題:広島電鉄の分裂と職場闘争の教訓/No:
著者:久保田敏  /誌名:労働者新聞
巻号:刊年:1972.7〜/頁:標題関連:



No.3

標題:西村桜東洋女史のこと/副標題:No:176
著者:久保田敏  /誌名:労働運動研究
巻号:176刊年:1984.6/頁:22〜27/標題関連:


No.4
標題:思い出すことなど副標題:戦前の労働運動の体験から/No:1〜11
著者:久保田敏  /誌名:はこべら通信
巻号:7/刊年:1980.9/頁:3〜4/標題関連:


西村桜東洋女史のこと

 労働運動研究 1984年6月 No.176号

 本誌に故西村板東洋女史の「獄中記」が連載されている。

私が初めて西村さんに会ったのは一九二八年の四月だから五十六年も昔のことだ。同年三月頃私は上京、仕事もなくぶらぶらしていたが、友人の紹介で新党準備会の機関紙の発送を手伝うことになった。

 事務所は内幸町の裏露路のどん詰りにあった。事務所といっても普通のしもたやで一坪位いの土間があって、畳敷きの部屋が三つか四つあった。上村進弁護士の貸家ではなかったかと思う。

 玄関のすぐ左隣りの四畳半に机が二つあって、私のはかに二人の青年が機関紙の帯封の宛名書きをした。機関紙は週刊で、帯封は三千枚位あった。毎号”発禁”が予想されたので発送はアジトを転々とした。しかも一まとめにして出すと差押えられる心配があるので、三人で手わけして、街頭のなるべく目立たない裏通りのポストに五部、一〇部と投函した。芝から浅草、新宿方面と五、六`の道をポストを探がすようにして歩きまわるのが普通だった。

 朝九時頃、事務所に出かけると、私と同年輩位の女性が割烹着に姉さんかぶりをしてバタバタと掃除をしているのによく出合った。美人とはいえなかったが、眼のくるくるつとしたどことなく純朴な親しみのもてる婦人で、事務所にいる人たちは、みんな”おとよさん”と呼び、人気者だった。

 私は二カ月ばかりで新党準備会をやめたので、「おとよさん」と直接話したこともなく、どういう経歴の女性かも知らずじまいだった。

 五年前、山本菊代女史の心配で、私はソ連旅行のツアーに加わり、出発直前、松戸の山本さんの宅に二晩ご厄介になった。そのとき山本女史から西村女史を紹介された。それでも西村女史が新党準備会の「おとよさん」とは気がつかなかった。山本女史が「おとよさん」を連発するので、どこかで聞いた名前だと思いながら、夜寝床のなかで旅行のことなどいろいろ考えているうちに、ふと新党準備金時代の「おとよさん」を思い出し、翌朝、山本女史に尋ねると、同一人物であることがわかった。

 ソ連旅行中も西村さんとはあまり話す機会もなく、もちろん彼女の経歴など知るよしもなかった。私が西村女史の経歴を知ったのは、彼女が昨年八月、福岡市の農民会館で亡くなり、その告別式に列席して、彼女の闘争史「怒りの席田」(単行本)の記録を読んでからのことである。   (広島 久保田敏

 


病床からの手紙 

忘れえぬ友 久保田敏君を憶う

野田弥三郎

労働運動研究 19867月 No.201

 

 

◇まえおき…十三通の手紙

一九八六年四月、二十九日、同志久保田敏が広島で逝った。彼が一共産主義者として、政治運動に、反核・平和運動に、また老人問題にどのように献身したか、また同志たちや市民たちとどのように深く交ってきたかについては、苦労を共にした多くの人々によって語られるであろう。だから私は、ここでは、入院直前から死に至るまでの四ヵ月のあいだに寄せられた十三通の手紙によって、彼の最後の心境を述べようと思う。

◇「自伝」執筆の構想

彼自身のこのたびの病の重さを感じとり、「これが年貢の納めどきかと覚悟していた」とも書いている。

だが、彼は余命のいくばくもないことを嘆くのではなく、やり残した最後の仕事をやり遂げようと強く決心して、直ちにその準備にかかったのである.その仕事というのは、「自伝」を書きあげることである。

入院直後の二月二日の手紙には次のように書かれているー

……ところで、突然のおねがいだが、昭和初期か、大正時代でもよい、東京市の地図(昔の本所、深川区から葛飾、浦安にかけてのものでもよい)が手に入ったら送って貰えないだろうか。……そこでふと思い出したのが例の深川の高橋から小名木川をつたって南葛を抜けて干葉県の浦安=行徳間を運航していた、いわゆる一銭蒸気船の労働者のことを書いてみる気になったのだ。それは私のささやかな運動経験を語ることにつながるのだ。:…・それには当時の地名や川の流れ、本所、深川一帯の環境など、どうしてもはっきりさせる必要がある。それで旧地図がほしいのだ。」(第四信)

神田で戦前版の複刻本をみつけ、それと最新版の東京都区分地図帳を送った。

だが、これでは「肝心の本所、深川の知りたいところが大ざっぱにしか出ていない」ので役に立たないから、もっと詳しいものを見つけてくれと言ってきた。二月十五日付の手紙でのことである。

ところが、この時点で彼のまえにもう一つ別の問題が提示された。それは、大阪で出されている『労研通信』の十五、十六号に載った河合恵君の「マルクス主義の再生のために」という論文に関連する思想問題である。

まず、「自伝」についての彼の構想を手紙によってはっきりさせることにしよう。二月二十二日付の手紙はー

……そこで撲にとって最も印象の強い一銭蒸気の労働者、純朴な、しかし荒荒しい労働と生活、それに寄食した半年間の僕の苦難時代から書き始めようと考えている。……

山陰の半農半漁の寒村で生れ、赤貧洗うが如き少年時代。高等小学校を卒業したばかりの十六歳の少年が、一人で下関から天長丸という貨物船に乗って大連に渡った時のこと。大連の満鉄従業員養成所に入り、そこを卒えて奉天駅の電信方として数年間働いたこと。そのあと駅員をやめて山口に帰り禅寺生活を一年間して東京に移り労働運動に参加したこと。芝浦での社外船スト、タグボートの乗組員の組織化。いろいろなテーマが次から次へと浮んでくる。問題はこれをどう整理し、配列するか、何を訴えるかということになると大きな岩にぶつかる思いがする。しかし、これが僕の最後の仕事だと思って何とかまとめておぎたい。本にするかどうかは考えないで虚心に書いて見たいと思っている。」(第九信)

「自伝」の構想はかなり具体的になってきている。古い地図の件も私が送った江東、墨田、台東、港の四冊の区史で希望がほぼみたされたようで、三月六日の手紙で懇切なお礼が述べられている。

◇思想的反省と勉学の情熱

次に、「思想問題」についして彼がどう対処したかを見よう。さぎに述べたように彼は京大の学生が肇自いた「マルクス主義の再生をめざして」という論文を丹念に読んだ。そして労研大阪支所に私にも一部送るように依頼した。これを受取った私は、論議にのぼる程のものとは思

われないので放っておくことにした。

久保田君は、私とはちがってもっと深刻に受けとったようで、二月十五日付の手紙には次のように書いている……

……かなり勉強しているらしく、ポイントを押えてなかなか説得力がある。つい反論したくなってペンをとったが、こちらからも5一度原典にたちかえって勉強する必要を痛感した。それで君の「今日におけるマルクス主蓑の世界観」、エンゲルスの「フォイエルバッハ論」、レーニンの「カール・マルクス」を読んでいる。たんに読むという受身の態度ではダメで、すすんで反論する姿勢をとったら新しいものが幾つか体得できたようだ。」〈第七信〉

三日後の二月十八日の手紙ではー前便でもちょっとふれたが、例の学生の論文をみて、感心すると同時に、おかしいそと思ったので、反論してやろうとしてペンをとったが、さて、自分自身がマルクス主義をどれだけ物にしているかと考えてみると全くゼロだということがわかり、君の「世界観」とレーニンの一カール・マルクス」を再読してみた。自分の不勉強だったことがよくわかった。ただ読んだということとそれを自分の武器として活用するということとは、全く別問題であることがよくわかった。

そう思って二つの文書を読みかえしてみると、マルクス主義の深遠な科学性と思考の武器であることが判りはじめ、今おりにふれ、じっくりと読みながら楽しんでいる。だが、これは僕だけの反省ではあるまいと思う。そういうわけで、目下、その方に重点をおいて、一銭蒸気の労働者の闘争は、時々構想をねる程度にして結構いそがしい入院生活を続けている。だが、絶対にムリをしないから」〈第八信〉

若い人の文章もおろそかにせず、それを「他山の石」として自らの知識の足らざるを反省するといった点は、如何にもこの人らしい態度と思うのである。

彼のレニンの「カール・マルクス」にたいする傾倒は、ひきつづいて強まり、二月二十二日の手紙、三月一口の手紙、三月十八日の手紙とつづいてそれに言及し、根本的な思想改造へと進んでいったのである。その要点は――レーニンのこの論文には、随所にキラキラ光る珠玉があり何回読んでもこれでよいというには到らない。〈第九信〉

……二、三小説を買ってもらったが、この頃では小説に手がゆかず白然に「カール・マルクス」の方にゆく。それほどあの小論文は僕の精神を捕えている。あと少しで一応読了ということになる。あとはメモをみながら、いろいろな角度から疑問を解いてゆくつもりだ〈第十信〉

……例の「カール・マルクス」をようやく読了したメモをとりながらではあるが、ほぼ四十日かかった。今まで一冊の本も一つの論文も徹底的に熱続したことのない僕にとっては貴重な経験だった。まだ大きなことは言えないが、マルクス主義の全貌がおぼろげながらつかめたような気がする。それにしてもレーニンという人物は天才だ。

あれだけの小論文にマルクス主義の肝腎な諸問題を明確かつコンパクトにまとめたのだから。

勉強の方法にもいろいろあって、方法さえよければ難解な本も案外に読みこなせるが、方法をまちがうと努力しても結局やちまた〈八街〉の藪のなかをさまよう結果となって得るとは少い。

今から六十年近くまえのことだが、芝浦の海員組合の書記をやっていた時代、河上訳岩波文庫の『資本論』の第一分冊を読んだことがある。まるで代数の教科書みたいで、価値論のところは何回も読んだが、結局わからずじまいで終ってしまった。資木論の面自さというものは全然感じないで、むつかしい本だという印象だけが残っただけだった。レーニンの論文を読んで資本論の全体像がわかったので、おそまきながらこれからボツボツ資本論を読もうという気になっている。

僕のとったメモは大学ノートでほぼ四〇頁になったが、繰返し読みかえしてみると、次第にマルクス主義の中心問題が明らかになってくる。メモにも赤線のアンダーラインが段々多くなってくる。〈第十二信〉

なんという勉学の熱情だろう!八十一歳をこえ、病の床にある老共産主義者の言葉の一つ一つに真理を求める者の熱情がこめられていると思うのである。

三月十八日付の手紙のあと約一ヵ月私への音信は途絶えた。そして四月二十一日に代筆でー

全身の衰弱ははんはだしく既に歩行困難。回復の見込み遠し、手紙を書くのもおっくうになった<第十三信>

◇むすび

「白伝」は構想のみでおわった。もしもそれを惜しむ読者がいたら、私の『一草園雑記・身辺雑記』の「友……人生行路の曲折におもふ」を見ていただきたい。

その時から六十五年の永い年月のあいだ、彼と私の交友はつづいた。別々の分野で活動はしたけれども、ただ一つの思想マルクス主義思想−で結ばれ、ただ一つの窮局目的―社会主義社会の実現―をめざして行動したのである。

(一九八六・五・二三)


友……人生行路の曲折におもう

野田弥三郎

「一草園雑記 身辺雑記より」19799

187 友」から

 京都の高雄のある病院で療養している旧友の久保田敏君からきた最近のハガキに次のようなことが述べられていた― 「先日の便りに満鉄時代のことなど書きはじめているとのことでしたが、時々思い出すのは押尾喜 代治氏のことです。彼については多くの思い出がありますが、その中で、今だに私の念頭を離れないものがあります。それは多分大正十年頃だったと思う。青雲寮でのことだった。彼が黒表紙のクロポトキン著『ある革命家の思い出』を私に見せたが、この本は彼が帰郷してのかえりの汽車の中で、中国の留学生からもらったということでした。その留学生の名は憶えていないが、当時のことだから、その後有名な革命家になった人物ではないかと思う。私の勝手な想像では、周恩来、郭沫若等このうちの一人ではないかと思われる。押尾氏は五〜六歳上だったから、恐らくもうとっくに亡くなっただろうが……一度墓参でもしたいと思っている」

 大正十年(一九二一年)というと、久保田君と私が十六歳、押尾君が二十一、二歳で、皆、奉天駅の電信方として働いていた時のことである。

 押尾君にクロポトキンの著書をくれたという中国の留学生が誰であったかは、詮索するすべはないが、久保田君の想像もあながち否定し去ってしまってよいものでもあるまい。

 それはそうとして、押尾君という人は、私にとっても尠らず思想的影響をあたえた人物である。その風貌は、写真でみるトロツキーとよく似ていた。顔は角ばって大きく、目は優しさの奥に鋭いものを秘めており、髪はムジャムジャと盛り上っていた。彼は早くからツルゲーネフ、ドストエフスキー、トルストイなどの著書を読み、福田徳三や河上肇の著書も見ていた。そして郷里の静岡に帰省した時は、東京に出ていろいろな人物を訪ねたようである。私が青雲寮に彼を訪ねた時.福田徳三博士に会った時のことを話してくれたのを憶えている。また、ツルゲーネフの「父と子」についての話の時、ニヒリズムとかアナーキズムという言葉が彼の口から出て、私を驚かせたのである。

 十五、六歳の頃は、私もひとなみに文学青年だった。立川文庫の武勇伝ものを卒業して、新潮社などから出されていた一葉、樗牛、透谷、独歩、紅葉のものなどを貧り読んだ。島田清次郎の「地上」の第一部が出た時は胸をおどらされた。また啄木の歌をかなりよく暗記して口ずさんだのもこの頃のことである。

 私がトルストイの「復活」を相馬御風訳で読んだのは、この押尾君の影響によるところが大きかった。この時は、徹夜勤務から帰って一ねむりしたあと、家の片隅に机をおいて夢中で読んだ。家の人人とも殆んど口をきかなくなって、どうかしたのかと怪しまれたりしたのである。

         ◇

 押尾君も久保田君も私も、みな高等小学を卒えて、大連にあった満鉄の従業員養成所に入り、六カ月の電気通信技術を学んだ仲間である。奉天駅勤務を命じられ、三、四十名いた電信方と一昼夜交替の辛い勤務に耐えて働いた。

 私は大正八年から十一年(一九一九ー二二)までのまる三年間ここに勤めたが、大連ー長春間の中央に位し、安奉線の起点でもあって奉天駅は重要な役割をもっていた。したがって、奉天駅の電信室には、四、五十名の電信方が配属されていた。この電信方のうち三十歳以上のものは十名ほどで、十代、二十代のものが圧倒的に多かった。それが二班に分れ、一つの班が朝八時から翌朝八時まで働いて他の班と交替するのである。この二十四時間勤務中、午後十時から午前一時まで四時間その半数が就寝し、他の半数はそのあと四時間就寝するのである。

 寝室といっても日当りの全くない六畳ぐらいの部屋で、薄汚いせんべ蒲団の上にゴロ寝するのである。電信方の仕事は、肉体労働ではないがひどく神経を疲れさせる。深夜の受信と送信は、馴れていても体にこたえる。列車が動いているかぎり、電報が発信される。各駅での貨車の連結と切離しがあるからである。ひとたび事故でも起ったら、何十何百通もふえるのである。

 ここでの勤務中、親しい若者が何人も結核でたおれていった。その一人、菊島亀一という山口県下の室積町(現在は光市)から南東に一キロばかり離れた牛島という瀬戸内海に浮ぶ小さな島の出身の若者のことが思い出される。彼は久保田君や私より一、二歳年長で小柄な男だった。早く父を亡し、母と二人暮しの貧しい生活の中で高等小学を卒えると満鉄の養成所に入り電信方となったのである。

ふりかえってみて、彼は天才的な頭脳の持主であった。字の美しいことでは及ぶものがなかったし、土井晩翠の詩を愛しその殆んどをそらんじていた。この菊島君も押尾君をとりまく若者たちの一人であったが、十九歳の頃、結核に冒され奉天の満鉄病院に入院し、のち郷里に近い虹ケ浜の病院に移り、二十四歳の若さで母をのこして死んでいったのである。彼が久保田君に遺した絶筆は、一枚の和紙に「衰弱甚しく 死の遠からざるを思う」と、みごとな字が墨書されており、今もなお久保田君の文書箱に保存されているとのことである。

            ◇

 私が駅員として勤めるようになった大正八年は、一九一七年のロシア革命の翌々年である。この歴史的大事件も、その頃の私には、十四歳の少年ということもあって、なんの関心もひかなかった。大正九年五月に起った尼港事件は、新聞が大々的に書きたてたこともあって、パルチザンは残虐非道な悪党共だと思い込んでいた。

 先輩の押尾君の話に耳を傾けるようになったのは大正十年になってからである。彼自身、その頃には月並みのヒューマニズムからは一歩抜け出ていたものの、社会主義とか共産主義というところまでは進みえていなかった。彼はそれ以後もそうした方向に進まず、ニヒリスチックな思想を抱いたまま若くして世を去ったようである。

 それにしても、満鉄王国の一員として、満人の上にあぐらをかき、のうのうと日を送っていたわれわれに押尾君があたえた精神的衝撃は大きかった。ボンヤリと今の生活に甘んじていてはならないという気持が、彼をとりまく私たちの間に生れたのである。

 さて、駅員をやめると決心してみて、自分に何ができるのかと自問すると何もないのである。金もなければ、トツー・トツーとやるほかに何の技能もない。そこで思いついたのが、まず中学卒業程度の学力をもつことであった。

 私は兄の手許にあった中学講義録と参考書を使って英語、代数、幾何を中心において勉強しはじめた。久保田君もおなじ方向でやりはじめていた。徹夜勤務の明けだけでなく、勤務時間中も夜間に仕事が少くなると作業台の上にテキストをひろげて勉強したのである。

 同僚たちが奇異の目で私たちの急変を見ていたが、そんなことにおかまいなくやった。この俄か勉強をいろいろと援けてくれたのは兄の文治である。大阪で工業学校に一年ほど通い、中退したのちも勉強をつづけていたので、結構私の質問に答えてくれた。兄がこんなことを言ったのを憶えている――「お前といっしょに寝るとかなわんよ、寝言にまで代数の方程式を言ったりするからナァ」と。

 半年ほどの間に、中学二、三年の課程を一応やり了えた。丁度その頃、奉天中学の三年の編入試験があることが判り、長兄の武太郎と次兄の文治が、「物はためしだ、受けてみろ」とすすめてくれた。

幸いこれに合格した。駅員をやめて中学三年に入学したのは十七歳で、十五、六歳の級友たちがあまりにも子供っばくて変な気がした。入学して一年間は野球やテニスの選手をしたが、二年目はそれをやめて高校受験に取り組んだ。教師たちは私を特別の目でみて指導してくれ、「君のような人間には、特殊な教育をやっている甲南高校がむいている」とすすめてくれた。父は満州医大に入って医者になれと言ったが、医者になる気はさらさらないし、それにもまして、満人を奴隷扱いにする日本人の生活態度に強い反撥をもっていたので、何が何んでも満州を去りたいと思っていた。兄の文治が私の気持を理解してくれて、僅かの貯金の中から百円おろして、「これを持って行け」と渡してくれたので、それを懐に内地に向ったのである。

 その時の私は、受験に失敗しても満州には帰らないそと心にきめていたのであった。無茶な話で、日本一のブルジョア学校に、かりに合格したとしても、あとの学資はどうするのか、何の目算もないのである。この難題を解決してくれたのは、今は亡き二人の兄である。合格の通知に折り返して当座必要な金を送ってくれ、その後も援助をつづけてくれたのである。私の甲南時代の三年間を快適に過させてくれたのには、兄たちのほかに、甲南の尋常科で数学を教えていた佐藤菊之助先生、長兄の知人の洋画家の宇和川通喩さんの名を忘れることが出来ないのである。

           ◇

 駅員時代の友久保田敏君は、私とはかなり異った道を歩んだ。私が辞めたあとも、彼は奉天駅に勤務し、大正十五年の八月に退職し、そこで得た八百円ほどを懐うに郷里の山口県下の農村に帰り、母をつれて京都、奈良、大阪などの寺院めぐりをやったのち、自らは萩市に近い禅寺の庭掃除番に住みこんだ。そこに一年半程いたが、そのあいだに僧侶のやることをすっかり身につけた。のちに東京で会った時、「君が死んだら僕がお経をあげてやるよ」と言って大笑いしたことを憶えている。

 寺を去って彼が上京してきたのは、昭和三年の春だった。その頃、芝浦の海員組合支部でモーター・ボートの運転手をしていた従弟の許に身を寄せ、この従弟と協力して東京港内のタグボート(曳船)の船員の組合づくりをやったのである。その頃配布したガリ版刷りの新聞を見せてくれたが、見事な出来ばえで、これなら受取った労働者はきっと読むにちがいないと思ったのである。

 こうして久保田君の労働運動への第一歩がふみ出されたのである。その後は、誰もが味わったように、彼も逮捕、テロ、投獄のにがい経験をなめたのである。別の分野ではあったが、私もおなじ時代におなじような経験をなめて生き抜いた。二人は、十代の中頃に友となり、今、七十代の中頃に、おなじ目的を抱いて深い交りをもって生きている。およそ六十年の交友である。こんなことは、誰もが望みうることではないと思う。

 彼は、私が中学に入ったことを、羨むのではなく心から喜んでくれた。その頃、会うたびに「本代に不自由していないか、僕は給料取りだから、そんなことぐらいは何んでもないよ」と言ってくれた。これは甲南高校にいてマルクス主義の研究に本腰を入れはじめた大正十四年のことであったが、彼の好意に甘えて「資本論」を買ってもらった。それは、新潮社から出版された高畠訳の菊版背皮の豪華本四冊である。当時のかねで十五円ぐらいした。四、五十円の月給取りにはなかなかの大金だったが、彼はなんとも言わず送ってくれた。

 私はこの本をカウツキー版の原書と対照しながら勉強した。高校二年生の中頃から卒業までの一年半につくったノートは、のちに東大にきて吉山道三のペンネームを使ってひらいた「資本論講座」の講義に大変役に立ったのである。残念ながら、久保田君に買ってもらった本もこのノートも空襲で家が焼かれた時、ひとつかみの灰となってしまったのである。

            ◇

 今、机に向って六十年まえのことに思いをはせていると、ツートト()トツートツーツi()

と音響箱から繰りかえし呼び出しがかかっているような気がする。そして三十台ほどの通信機が並んでいる部屋の一隅に、トロツキー型の風貌の押尾先輩が立ち、そのまおりをわれわれ数名の少年駅員が取り囲んで先輩の言葉に耳を傾けている、といった状景が目に浮んでくるのである。

 押尾君を師として久保田君や私らが精神的に醒めはじめたあの一時期は、久保田君にとっても、また私にとっても、人生行路の最初の曲折点として忘れ去ることの出来ない深い意味をもつものであったのである。

                               (一九七九・四・一二)


りんごの皮…:白い花嫁衣裳


野田弥三郎

「一草園雑記 身辺雑記より」19799


 とむらいのことが一あたりすんで、心の静けさをとりもどしたところで、つね日頃、妻の安否をき
つかってくれていた人々に、生前の厚誼を謝する挨拶状を差出した。
 その文面の後半に、妻の生涯について次のようなことを書きそえておいたー
  「故人、七十一年の全生涯を通じて、殊更に人眉を惹くようなことを何一つ致しませんでしたが、
 常に大衆と共に生き、自らはよく貧困に耐えつつ不幸な人々の救援に手を差し伸べることを忘れま
 せんでした。
  戦前の暗い時代には官憲の弾圧に屈せず闘いましたし、戦後は原水爆の禁止や婦人の社会的地位
 の向上のために地味な活動をつづけました。それらのことは未だ十分な成果をみてはおりませんが、
 念願達成の日の到るを固く信じて瞑目することができたのは不幸中の幸だったと思います。」
 この挨拶状にたいして多くの方々から懇ろな手紙をいただいた。そのうちの一つにー
  「《静かに静かに永遠の眠りにつきました》とある文面を只今もまた読み返し、思わず胸が熱く
なりました。長い療養の御生活でしたが、生涯のよき伴侶であられる方に見守られて逝かれた奥様
は幸せでしたね。」
と述べられ、次のような詩が書きそえられていたー
       りんごの皮
        ぺに
     透明な紅色の濃淡のリボンが
     するするとナイフの下から おちてくる
     私は ふるえるほどの驚きで
          てのひら
     りんごの皮を掌にとった
     りんごの皮が こんなにも
     美しく 輝やかしく
     あざやかな色であろうとは……
そこは日本堤署の特高室の片隅
薄よごれたテーブルの上に
美しいりんごの皮は落ち
美しいその人の印象と共に
にがく つらい 私の青春の日の思い出となった。

 この詩は、私を四十余年もまえの或る日の出来事につれもどした。それは昭和八年の秋のことであ
る。この日、この時の情景を心に描きだすことのできるのは、この婦人と私たち夫婦の三人だけなの
である。
 ナイフでりんごの皮をむいているのは妻の俊子であり、「美しいその人」と言われているのも妻で
ある。そして、りんごの皮の落ちるのをジーヅと見つめているのは、この婦人である。また、特高室
の反対側の片隅でこの情景を眺めているのが、この私である。
 室内には、小柄だがピチピチした感じの特高主任が部下の私服刑事と何か打ちあわせをしている。
それにもう一人、主任のかたわらに腰かけて皆の話に耳を傾けている男がいた。彼は最近「特高の回
想」いう本を出した宮下弘で、当時、警視庁の特高課で左翼検挙に数々の手柄をたて、異例の出世を
とげた男である。(註)
 この詩の作者は、当時、十七、八の小娘であり、私たちも二十六、七の若者だった。だから、 「に
がく つらい 私の青春の日の思い出」という言葉は、三人に共通するものでもあるのである。
 私が日本堤署にタライ廻しされてきたのは、昭和八年の十月だった。八月に治安維持法違反で検挙
され、上野、高輪の二署を経てここに移され、年末に市ケ谷刑務所に送られたのだった。この間、上
野署でうけた特高の残忍極まる拷問で、私の右足は筋肉が硬直して曲げることができず、苦しい思い
をしたのである。
 日本堤署の地下の留置場の一隅に女性用の監房が一つあり、そこに出はいりするのはスリか淫売婦
がほとんどだった。そうした中にたった一人「大尉の娘」と監守が呼んでいた女性がブチ込まれてい
た。これはずっとあとで判ったことだが、この娘の父親は、陸軍士官学校出で、日露戦争の時には中
隊長として旅順港攻略に出動した軍人である。
 女性用監房のまえを通ることがあっても、薄暗い部屋の片隅にうずくまっていて顔など判るもので
はなかった。だから、まともに顔をあわせたのは、特高室でのことである。ひどい拷問とながい地下
室生活で痩せ細り、青黒い顔の小さな娘さんだったことが深く印象に残っている。そう言えば、私自
身だって、水ぶくれした顔の、そしてビッコひきの見すぼらしい青年だったにちがいない。
 顔をあわせたものの一ことも言葉をかわすことが許されないから、名前も知らぬ間柄でその時は過
ぎてしまったのである。
 妻はその頃、山谷のドヤ街に近い玉姫方面館につとめ、貧困世帯の調査や救護の仕事をしていた。
日本女子大の社会事業科を昭和四年に卒業し、東京市の社会局に訪問婦として採用され、ながくそう
した仕事をつづけていたのである。
 私への差入れ品を持って、妻はしばしばこの日本堤署へやってきた。衣類のほか果物やエビオスの
ような栄養剤を持ってきた。そんな時、特高主任が「あの娘のところには此頃差入れがないから分け
てやらないか」と妻に言った。私たちは喜んで承諾し、この「大尉の娘」を特高室に呼び出して差入
れの品を分けあったのである。それが、この「りんごの皮」という詩が生れたいきさつである。
           ◇
 だが、こうしたことも、おたがいが其後の生活で別々の道を歩んだとしたら、名も知らぬ人間どう
しとして生涯を終ることになるのである。
 幸にして私たちは、一寸としたことから再び相知ることとなったのである。
 私は昭和八年の年末近くに市ケ谷刑務所におくられ、更に千葉刑務所で刑期をおえて出獄したのは
昭和十一年の十一月だった。出獄後は、新聞記者をしたり、鉄鋼連盟の調査部員になったりして生活
した。
 日本堤署の出会いから五年ほどたった昭和十三年の四月、私は一枚のはがきを受取った。それは東
大新人会の仲間の一人である千葉成夫君の結婚祝賀会をやるから是非出席してほしいという案内状で
ある。千葉君とは十年近く会っていないし、そこに行けば古い友達とも会えるかも知れないと思って、
京橋の明治屋ビルの中にある中央亭に行ったのである。
 私がついた時には、すでに五、六十人の人がきていて賑かな雰囲気があふれていた。水戸高校出身
の人たちが世話役をつとめており、その中には顔見知りの人も何人かいた。
 会場の正面には新郎新婦が着席して、来会者と挨拶を交していた。その両脇には親戚と思われる人
が何人か着席していた。千葉君がどんな服装をしていたか忘れたが、新婦は真白なウエディソグ・ド
レスを着て、白い手袋をはめていた。そして厚化粧した顔をうつむき加減にして人々の祝福をうけて
いた。私もそれらの人々にまじって簡単に挨拶をかわしたのである。花嫁さんの姿はなかなか立派で、
「千葉君も素晴しい妻君をみつけたナア」と感心したのであった。
 この日の集りでもう一つ忘れることのできないのは、小川治雄君の出現である。彼は千葉君とおな
じく水戸高校の出身で、新人会のメンバーでもあった。彼は「ガンちゃん」という綽名で呼ばれてい
たが、大きな丸刈りの頭を肩に埋めた格好は、さながら大きな岩塊のような印象をあたえるのである。
 この小川君が、二等兵の軍服を着て会場にかけつけてきた。何度も監獄にぶちこまれたのだが、学
生時代と少しもかわらぬ朴納さで皆に挨拶した。召集で赤坂歩兵第一連隊に入営し間もないのだが、
特別の許可を得てここにかけつけて来たのだった。外出許可の時間がほんのちょっとだったので、新
郎新婦に挨拶し、友人たちとも若干の言葉をかわして、一同の拍手をあとに帰営した。これが彼とわ
れわれとの最後の出会いだったのである。彼はその後まもなく大陸に派遣され、この年の十一月江西
省永修県甘木関というところで、あたら三十三歳の若さで戦病死したのである。
 祝賀会のおわりに、全員の記念写真をとった。千葉夫妻はそれを携えて、まもなく上海に向って旅
立った。山崎経済研究所の上海分室長として働くためである。
 それから二、三ヵ月たって、上海で出した一本の手紙を受取った。差出人は千葉冨貴子と記されて

いた。私たちは千葉夫人だとは判ったが、それ以上のことは判らないままに封を切のった。文面にはー
  「記念写真を見ていましたら何んとなく見覚えのあるお方の顔を見つけました。失にこの人は誰
 かとたずねましたら、《ナァーンだ、それは野田君じゃないか》と、言われました。はじめてあな
 た方の御名前を知った次第です。あの時は、奥様に大層親切にしていただいて誠に有難うございま
 した。」
大体、このようなことが書かれていた。
 特高室で出会ったあの「大尉の娘」が、祝賀会で見たあの美しい新婦だったのである。
 そして今、この「大尉の娘」が、私の妻の死を弔って、この「りんごの皮」の詩をおくってくれた
のである。                                 (一九七九・一・二二)

(註)「特高の回想」の中で、聞き手の人が、「特高の取調べというと、わたくしたちは拷問である、と考える
わけですが……」と言うのにたいし、宮下は言を左右にしたのち「いや、わたしはない(痛めつけたりはし
ない……野田)。暴力はわたしの主義じゃない。とくにわたしは婦人にたいしては絶対に手をあげない。 子
どものころからおふくろを大事にしてきましたから」と答えている。彼が暴力主義者でないこともそれでよ
 い、また、親孝行者であることもよい。だが、自分が直接手を下さないとしても部下にそれをやらせたこと
 は事実である。若い女性をまる裸にして逆吊りにし、体のあちこちをこすりまわしたり、竹刀でなぐったり、
新聞紙をくすべて苦しがらせたことは歴然たる事実である。
 直接手を下した者とそれを指揮した者と、どちらが責任が重いか。指揮してやらせた者の方が、何十倍も
責任が重いことに、彼は気がつかないのである。今は俳誌を主宰しているということだが、こんな事に気づ
きもせず、反省もしない男のつくる俳句というものがどんなものか一度お目にかかりたいと思うのである。

 朝めしのまえにダブルのグラス一杯のジンに二、三滴のレモンの汁を加えてのむのが好きだ。空の
胃袋にしみる度の高いアルコール、杜松の匂いとレモンの匂いとが重なりあった香りとが残った眠気
をふき払ってくれるのである。
 独りぐらしの静かな食卓で、ジンの香りを楽しんでいると、半世紀以上もまえの出来事が頭のすみ
から湧いてくる。私がジンという酒のことをーそれも友人たちの話のうえでのことだがー知った
     
のは、やっと二十歳になった頃のことである。昭和十三年に甲南高等学校に入学し、満州育ちの私に
 
は高梁酒のきつい匂いには顔をしかめたりもしたことがあるが、ジンなどというハイカラなものに
はお目にかかったことがなかった。
 甲南の同級生の中に、文科甲の島之夫と文科乙の田中次郎八の両君の名を思い出すのだが、この両
名はなかなかのしゃれ者で、ジンだのブランデーのことなどよく話題にのぼして自慢した。この頃の
一般の高校生のあいだでは、焼酎をあおってストームをやったといった話をよく耳にしたものだが、
舶来の高級酒が自慢の種になるのもこの学校のちがったところだったかも知れない。

            ◇
 ジンの香りを楽しみながら、はじめてこの酒を口にした時のことを思い出した。それは高校生活の
最後の年、大正十五年の夏だったと思うが、大阪の中之島公会堂で全国学生弁論大会がひらかれた。
甲南からも誰か出場しろというすすめがあり、私が代表として出たのである。生徒の少ない甲南の弁
論部は部員も極めて少数で、学内でひらく弁論会には、弁舌のほか合唱グループやヴァイオリン演奏
のうまい学生を応援に登場させたりした。弁舌といっても雄弁をふるうというのではなくて、講演と
か講義に類するもので、文学関係では小場瀬卓三君、社会周題では私が毎度登壇して三、四十分ずつ
しゃべったのである。
 小場瀬窟はモリエール研究その他フランス文学の研究で多くの業績をのこして昭和五十二年の暮に
故人となられた人である。甲南時代にもハウプトマンやイプセンやの作品をとりあげて講演した。私
の方はクロポトキンやマルクスの著作からいろいろな問題を提起した。私の方は少々やり過ぎて生徒
監に呼ばれ注意をうけたこともあったりした。
           ◇
 この私が甲南代表で中之島公会堂の壇上に立つことになったのである。学校の講堂の何倍もある広
い会場で、マイクなどのない時代のことで、少々大きな声を出しても奥までとどくことはない。会場
は学生たちで満員であり、ガヤガヤと騒がしく、校内の弁論会とは全く勝手がちがうのである。
87 ジンの香り
 それにもましてちがうのは、演壇のうしろにしつらえられた臨官席である。その中央には署長とお
ぼしい警官が、金ピカの服を着、長いサーベルを立て奮然と構えている。その両側には補助の警官が
着席していて、号令一下飛びかかる身構えをしているのである。
 この年の一月に学生社会科学連合会事件があり、「赤い学生」が当局の神経を尖らせていたのであ
る。私はこのことを念頭において題目を「私の科学的信条」という漠然としたものにしたのであった。
 私のまえに登壇したのは神戸高商の代表であった。発言しはじめて二、三分、言論の自由を要求す
ることに言及すると警官のサーベルがガチャンと音をたて「弁士中止」の大声が飛んできた。それに
呼応して「警官横暴」の叫びが会場一杯にわき起こった。
 次いで登壇した私は、殊更に声を低く小さくしてしゃべり始めた。こんどは会場から「貴様は講義
しにきたのか」とか、「聞えぬゾ」という声が飛んできた。そこで私は、だんだん声を大きくし、「真
理は権力をもって圧殺することは出来ないのだ」と言った。その瞬間、まえの弁士のときと同様にサ
ーベルが音をたて署長の声が飛んできた。聴衆の中からはまたまた「警官横暴」の叫びが巻き起こっ
たのである。
 私は否応なく降壇せざるをえなかった。「畜生畜生」とつぶやきながら地階の食堂におりていった。
テーブルに腰をおろすと白いエプロンをつけた女給さんがやってきた。咄嵯に口に出たのは「ジンを
一杯くれ給え」という言葉であった。これが私がジンを口にしたはじめてのことである。

           ◇
 このことがあって一、ニヵ月あとのことである。京都の岡崎公会堂で全国高等学校弁論大会が催さ
れた。主催は京大の弁論部であったと記憶する。会場は中之島公会堂のようにだだっぴろくもなく、
私の声でも十分にとどく程度だった。
 この日も警官の臨席はおなじようで、数十名の警官が聴衆席の両側に配置されていた。正面の二階
席には京大生の一団が陣取っていて弁士たちに声援をおくっていた。
 この時は、漠然とした表題を掲げてもやられるのはいっしょだからと「対立物の闘争について」と
いう表題を出して登場したのである。京大生の一団は、私の登壇を待ちうけてでもいるように強烈な
声援をしてくれた。ここでも、はじめは哲学的な表現で弁証法の本質について語ったがそれにつづい
て階級闘争に移った。その瞬間、警官のサーベルが音をたて「弁士中止」という大声が飛んできた。
その先ひと言でもしゃべれば豚箱入りは間違いないのでアッサリと引退った。
           ◇
 この晩は京都に住む知人の家に泊めてもらい翌日本山村の下宿に帰った。驚いたことに私が帰宅す
るまえに御影署を通じて学校に通告があり、下宿先には刑事が来ていた。こうして私の名がはじめて
ブラックリストにのったのである。
 七十年以上も生きつづけると、一杯のジンの香りにも、いろいろなことが絡まりあって思い出され
るのである。
(一九七八・一一・二四)



若かった日の思い出…: 新人会時代を中心にして

野田弥三郎

「一草園雑記 身辺雑記より」19799



 「新人会時代のことで、どんなちっぽけなことでもよいから、思い出すままを書いてくれないか」
という電話を石堂君からもらったのは、今年の二月のはじめだった。その時僕は、二、三日まえに出
先生からいただいた『出隆自伝』の続篇を正篇とならべて、あちらこちら拾い読みしていた。先生の
記憶力の確かさ、物を見る目の精密さに今更ながら驚かされたのだが、そこに取り上げられている出
来事の幾つかは僕も体験したことのあることがらであり、また、そこに登場している人物の中には僕
にも縁のある人がいたりするので、つい自分の中に潜在していたものが念頭に浮んできて、何時にな
く回顧的な気分におち入っていたのである。
 そんなところに石堂君からの電話をうけ、簡単に引受けてしまったのである。ところが、いざ筆を
とってみると、五十年近くも昔のことであり、もともと記憶力の脆弱な僕のことなので、何もかもが
ボヤッとしていて、事のあとさき、人のあれこれがあやしくて、誤り伝えることへの懸念が先に立ち、
なかなか書き進めなかったのである。
 だが、約束してしまったからには果さねばならないと思って、『新人会年史表』や手許にある古い
91 若かった日の思い出
二、三の文書をひらいてみたりして、やっと書き上げたのがこの一文である。
           ◇
 僕が新人会に入ったのは昭和二年の三月で、それから一力年足らずの間、そのメンバーとして活動
したのである。この時期は、前年につづいて、若いインテリゲンチャの間にマルクス主義が一つのブ
ームを成していた。こうしたブームが起ったのには、当時の社会的条件が根本要因として働いていた
にちがいないが、その特異な熱狂ぶりは福本イズムによって掻きたてられたものであった。多少とも
進歩的な考えをもつ高校生や大学生は、ためらうことなくマルクス主義への道に突き進んだのである。
 大正十四年、甲南高校の二年生であった僕は、大杉やクロポトキンの著書の影響から抜け出てマル
クス主義へ進み、十五年には人並みに福本イズムの影響をうけたのである。だから、東大に入学する
というよりも新人会に「入学」することを目ざして僕は上京したのであった。
 僕は、経済学部の入試がすんだその日に谷中清水町の合宿を訪れた。それは昭和二年の三月の初め
だった。入試の結果が発表されるまえだったが、落ちたらどうするといったことなど考えてもみなか
ったのである。
 大学の裏門から市電の逢初橋停留所に出て、更に上野公園の方へ百メートルぐらい行き、右に折れ
て更に左に折れたところで、「大間知篤三」という標札のかかった二階屋が合宿所だった。門から五、
六歩入って格子戸を開けて案内を乞うと、最初に現れたのは吉川実治(変名二木猛)君だった。幸い

京大社研からの連絡がとどいていたので、すぐに上らせてもらえた。
 玄関脇の四畳半で会合がひらかれていたらしく、島野武君ほか四、五名のリーダー格の人々がいた。
初対面の人ばかりだったが、甲南社研を指導していた京大社研から僕についての詳しい連絡があった
ので、気易く仲間に入れてもらえたのである。
 他の高校からは数名ずつの新入会者があり、いずれも先輩とのつながりをもっていたようだが、僕
にはそうしたつながりはなく、一人ぽっちという孤独感はあったが、合宿で生活することになったの
でそれもすぐ消え去った。そして吉山道三という変名も入会と同時に使うことにした。
 その頃、新人会の合宿は、清水町のほか森川町、千駄木町にもあった。清水町には、指導的なメン
バーはおらず、平会員ばかりが起居していた。
 ここで合宿生活について思い出すことを少し書いておこう。
 ここで賄方をやってくれたのは二十四、五歳の婦人で、度の強い近眼のメガネをかけていた。大変
じみな人柄で、黙々としてよく働いてくれた。何年かのちに道路で出会ったが簡単に挨拶しただけで
わかれた。今ではその人の名前すら忘れてしまった。
 この合宿で起居を共にした人々で思い出すのは、先輩では戸田京次、上平正三、安藤誠一、宮ノ下
文雄、沢田三郎の諸君であり、同輩では田中宋太郎、丹慶与四造、宮崎達(金沢)、田中清玄(奥山久
太)の諸君である。田中清玄君は一、ニヵ月で他に移っていった。
93 若かった日の思い出
 このほかに、三ー四月は新旧入れ替りで、大間知篤三君、久板栄二郎君、入江正二君といった卒業
期の人々が出入りしたことを憶えている。特に久板君についてはこんなことを思い出す。同君が早大
正門でのビラまきでブタ箱に入れられ、お土産にシラミを持ち帰り、それが合宿所で大量にふえたこ
とである。かゆいかゆいという声がまき起り、寝室を密閉してフォルマリン消毒をやることになった。
このシラミ騒動で一番活躍をしたのは宮ノ下文雄君だった。タオルで目鼻をつつみ、ガスの充満した
部屋に突入して蒲団をひっくり返していた亡き同君の姿が、今も目に浮んでくるのである。
 清水町の合宿所では、階下は会合、寝室、食堂に使われ、階上は宿泊者たちの勉強部屋にあてられ
ていた。今でも思い出すが、この勉強部屋は真夜中でも誰かが読書にふけっていて電燈の消えること
が殆んどなかった。ここでは一切口をきかず、話があれば下におりるといった風で、この一事をもっ
ても当時どんなに真剣に勉強したかが窺われるのである。
 大の勉強家だった戸田君と安藤誠一君が鉢巻して『何を為すべきか』などと取り組んでいた姿が目
に浮ぶ。新入生の僕らは、先輩たちの真面目な勉強ぶりにつられて二時、三時まで読書したのである。
 新人会にはいって最初に僕にふりあてられたのは、書籍部の仕事であった。合宿所には押入れを利
用した書物置場があり、すでに何百冊かの本や雑誌が並べられていた。僕の仕事はこれを整理し、そ
れに新刊物を仕入れて補充し、会員に売ることであった。この仕事を担当したお蔭で希望閣、白楊社、
同人社、弘文堂、叢文閣、共生閣どいった左翼出版社や産業労働調査所などを短時日のうちに知るこ

とが出来た。当時「マルクス主義」「政治批判」「インタナショナル」といった雑誌は勿論のこと、重
要な左翼文献は発禁になるのが当りまえのようだった。だから、早手廻しに差押えられるまえに入手
せねばならなかったのである。
 希望閣はマルクス主義文献の出版で最も信用されていただけでなく、「マルクス主義」「政治批判」
の両雑誌の出版社として重要な地位をしめていたので、最も多く足をはこんだ。大隈講堂の裏手にあ
る小さな家屋で、いつも主人の市川義雄さんが笑顔で応対に出てこられたことを思い出す。
 共生閣は芝区南佐久間町にあり、俸給生活者組合の事務所と隣り合せの二階屋だった。主人の藤岡
淳吉さんは額が広くて、つやつやした顔の小柄な男で、ざっくばらんに物を言うのですぐ親しくなっ
た。レーニンの『何から始むべきか』をはじめ、二十銭か三十銭のパンフレットを何冊か出していた。
本の仕入でふれあったのが縁で、ロゾフスキー著『大戦略家レーニン』、レーニン著『パリー・コム
ミュンの経験』、エンゲルス著『史的唯物論について』、レーニン著『背教者カウツキi』の四つの翻
訳物を、昭和二年の夏から翌年の春までの間にここから出版することになったのである。
 書籍部の仕事をしたことで、かなり多くの会員とふれ合うことが出来た。そして、これらの人たち
から僕がひとかどの左翼文献通として扱われるようにもなったのである。
 書籍部の仕事と同時に、新人会主催の公開研究会の活動に協力するようにも命じられた。安田講堂
の裏手に木造の古い建物があり、学生監室と隣合せだったと思うが、そこに五、六十名収容できる教
95 若かった日の思い出
室があって、そこを会場に公開研究会が毎週ひらかれていた。講師には大森義太郎氏と山田盛太郎氏
が委嘱され、テキストには『フォイエルバッハ論』や『カール・マルクス』が採用された。ところが、
これらの講師の出席が極めて悪く、多数の学生が集っているのに講師が欠席して主催者側が困惑する
ことが屡々起ったのである。
 僕は、半ば世話人、半ば聴講生という形で出席していたのだが、講師が欠席した時には臨時に講師
をつとめさせられた。神楽坂で買った安物の黒い背広をきていたし、もともと年よりもふけて見える
ので、一年生ながら二年生や三年生のまえで講義しても妙な感じはもたれなかったようであった。
「吉山道三」講師はこんな風にして生れたのである。
 そうこうしている間に、この公開研究会の常連だった何名かの学生から社研として「資本論講座」
をひらきたいが講師になってくれないかとの申出があった。
 幹事会の了解を得たかどうかはっきり憶えていないが、僕は公開研究会の継続といった気持でこの
役割を引受けたのである。それから掲示板に「資本論講座」講師吉山道三、会場工学部○○番教室と
いう貼紙が出るようになった。そこには十数名の学生が出席した。東大生だけでなく、その中に高等
師範の学生が三名加わっていた。
 この「資本論講座」は、昭和二年の九月から年末近くまで毎週つづいた。ここでは甲南時代につく
った『資本論』第一巻のノートが役に立った。このノートには『資本論』の重要箇所の抜葦は勿論、

櫛田、河上両氏の価値論に関する論争などからの抜き書きもあり、僕の生涯につくったノートのうち
最も念の入ったものであったが、戦災で焼いてしまった。
 これと同じ時期に、前記の高師生を中心にした高師生だけの研究会と、日本女子大生だけの研究会
の講師をした。前者には五、六名、後者には七、八名の学生が参加していた。このいずれも学校側に
知れると処分されるので個人の家で秘密にもたれていた。日本女子大のグループの中には、昭和六年
になって僕と結婚した小林俊子もいた。
 これらの研究会では『へーゲル法哲学批判序説』や『フォイエルバッハ論』や『カール・マルク
ス』をテキストに使ったことを憶えている。
           ◇
 ここで話をもう一度ふり出しに戻して、僕が新人会に入った頃の会の動きを思い出すままに書くこ
とにしよう。
 昭和二年の春というと、前年来の福本イズムの影響力の絶頂期である。だから、雑誌『マルクス主
義』や『政治批判』、それに福本氏の個人雑誌『マルクス主義の旗のもとに』にのった福本氏と福本
イストといわれる人々の論文をめぐって「理論闘争」が熱気をもってやられていた。
 四月のはじめだったと思うが、われわれ新入会員の歓迎会が山上御殿で催され、田中稔男君をはじ
め何人かの先輩が交々立って激励演説をおこなった。その中で特に僕の印象にのこっているのは、島


野武、亀井勝一郎、杉田揚太郎の三君の演説で、福本イズムに特有の用語をちりばめた弁舌には舌を
巻くばかりであった。だから、今でも島野といえば皺くちゃ顔の市長としての島野ではなく、亀井と
いえば白髪の評論家としての亀井でなく、杉田といえば銀行屋の杉田ではなく、あの晩の輝けるリー
ダーとしてのこれら諸君が先ず頭に浮ぶのである。
 そのときの演説の内容については、ハッキリしたことは憶えていないが、当時の事情から推して、
反動的教育政策との闘争、特に京大学生事件後の思想取締り強化との闘争などが中心であったように
思う。そしてこうした闘争から脱落した「書斎派」にたいする非難が強く叫ばれたように思う。
 新人会会員の研究会は、主として清水町の合宿で開かれた。それには新入会員だけでなく先輩たち
も参加した。ここでは、エンゲルスの『フォイエルバッハ論』、レーニンの『何を為すべきか』、ブハ
ーリンの『史的唯物論の理論』といった文献がテキストに用いられ、基礎理論の把握に力点がおかれ
ていた。
 新入者の僕はこの研究会には積極的に参加した。そして、哲学上の問題で皆が理解に苦しんだりし
た場合には説明役にまわったりもした。そうしたことから公開研究会の臨時の講師におされるような
ことにもなったようである。
 その頃の左翼学生で福本イズムの影響をうけなかった者は殆んどなかったと言ってもよい。僕自身
もその一人だが、新人会の研究会に出てみて、そのうけとり方で他の多くの人々とかなりちがってい

ることも感じられた。それらの人々は、高校時代か大学時代かは別として、多かれ少なかれ学生運動
を体験し、それとの関連のもとにマルクス主義を求めて進んできたのであった。それだけに単純とい
うか率直というか、狂信的に福本イストになりきれていたのである。
 それにひきかえ僕の場合、甲南高校という典型的なブルジョア学校にいて、学校側から思想上のこ
とで格別圧力を加えられるようなこともなく、本ばかり読んで過してきたのである。「同盟休校」ど
ころか学校当局とのトラブルさえ体験しなかったのである。「甲南社研」が生れたのは卒業の四、五
ヵ月まえのことである。一年先輩の加藤正君が京大社研のオルグを連れてきて、これらの人の協力で
五、六人の学生が集ってつくったのであった。この「甲南社研」も本を読むだけで、学生運動らしい
ものは何一つやらなかったのである。
 僕のマルクス主義の「洗礼」は高校一年生の終りごろのことだった。それは大正十三年の暮頃から
翌年の春にかけてのことである。クロポトキンや大杉栄の著書を経てマルクスとエンゲルス、プレハ
ーノブとレーニンの著書を読むに至って僕の思想の体質は決定されたのである。その際、最も大きな
影響をあたえたのはエンゲルスの『フォイエルバッハ論』だった。
 こうして自分なりに思想形成をとげていたのだから、福本和夫氏の『社会の構成並に変革の過程』
を読んだ時も、多くのことを教えられはしたが、どことなく融けあわないものが感じられたのである。
未熟な当時の僕が福本氏の思想を全面的に批判する力量があるはずはなかった。しかし、根にどうし

ても融け合わないものを抱いていたので、新人会の研究会でもついそれが口に出て、皆から攻撃され
たことも時折あったのである。
 その一つの例として、福本氏の有名な言葉に「この階級(無産者階級)は、認識の主体たると同時
に客体たりうべく、また、たらずにはいられない」というのがあるが、この主客統一の認識論は恣意
的であり、唯物弁証法とは相容れないものだと言ったら、皆が「君は無産階級の本質を把握していな
い」と激しく攻撃されたのである。
 こんなことが何度かあり、その上にあけすけに物を言わない僕の性格も手伝って、一部の人たちか
ら異端視されることにもなった。ずっとのちになってからだがーそれは戦後のことだったがー片
山さとし君から「新人会の頃、一時、指導部で君をスパイじゃないかと疑ったことがあったよ」とい
うことを聞いたが、さもありなんと思うのである。
 この「異端者」である僕に、どんな風の吹きまわしか、新潟と松本の両高校の研究会の指導を命じ
られた。それは、夏休みに入る直前の七月末だった。「学連」から「新人会」へ、そして幹事長の竪
山利忠君からこのことが僕に伝えられたように記憶する。今ではどんな任務が指示されたか忘れたが、
とにかくこれを受けて、先ず新潟高校へ向った。
 あらかじめ連絡されていたので、僕が海に近い高校の寮に行った時には、すでに五、六名の学生が
集っていた。何をテキストに勉強していたか忘れたが、僕はすぐ仲間入りして討論したり、質聞に答

えたりした。研究会が終ると二、三人の学生が案内してくれて海岸に出た。はじめて見る日本海の海
の色は殊のほか美しく、長くつづく砂丘とマッチして見事な景観をつくり出していた。肝腎の研究会
のことは忘れてしまったのに、散歩したときの印象だけは今なお目に浮んでくるのである。
 二日ほどここに滞在して松本に向った。ここでは責任者に会っただけだった。社研のメンバーは皆
帰省していて研究会はひらけないということだった。この学生の家が旅館だったので、そこに一泊さ
せてもらったことを憶えている。
 これで一応役目が終ったので京都にゆき、京大社研の合宿を訪ねた。甲南出身の加藤正君や大橋静
市君はそこにはおらず、ほかに顔見知りの学生もいなかった。合宿の世話をしていた長谷川駒子さん
(当時は島崎)にお茶を御馳走になって引きあげたことを思い出す。
            ◇
 京都から古巣の神戸に向い、御影の加藤君宅を訪ね、ここに数日逗留した。そこに京大の葛野友太
郎君がやってきて、「ある重要な人のレポーターがほしいんだが引受けてくれないか」というので、
加藤君と相談のうえこの申入れをうけた。
 その頃は金融恐慌後の不況で、中小企業の倒産が続出し、賃金不払い、首切りが阪神一帯に拡がっ
ていた。
 僕が引会わされた人は、神戸を中心とする地域の工代会議のオルグだったのである。この二人のオ

ルグは上筒井のしもたやの二階を問借していた。謄写版を一台もっていていつも何か印刷していた。
警察に顔を知られているため昼間は絶鮒に外出できなかったので、その間の用事を僕がつとめたので
ある。
 レポーターとしての仕事もあったが、日々の生活上の雑用もあった。ある時は「駅弁」が食いたい
というので三ノ宮まで買いに行ったこともあった。あとで判ったことだが、この二人のうちの一人は、
評議会の中央委員の板野勝次君だったのである。
 僕自身もデカに顔を知られるようなことがあってはならないので、工代会議の会場には行かなかっ
た。たった一度だけだが、集りの模様を見てきてくれと言われ、湊川公園の中の会場に出かけたこと
がある。それも一般の散歩人のふりをして遠くから様子を観察しただけだった。窓が開いていて電燈
が輝いていたので中の様子がよく見えた。三、四百人の労働者が集っていて熱気のこもった演説がや
られていたことを思い出す。
 神戸ではじめられた工代会議運動はそのあと阪神全体に拡がり、更に全国各地でもやられて労働運
動史上に大きな記録をのこすことになったのである。
 加藤君の家を根城にして何日間かこうした仕事をやっていたところ、同君の親父さんに怪しまれて
大目玉をくい、出入りを禁じられたのである。加藤君が万事を引受けてくれたので、僕は淡路で病気
療養中の兄のところへ去って行ったのである。永い間、家族の一員のように扱われてきた加藤家とは、

この事があってから全く断絶されてしまったのである。
 工代会議の運動は阪神地方についで京浜地方に拡がり所々で集会がひらかれた。本所の帝大セッル
メントを会場としたそうした集会のことを思い出す。それは九月のはじめだったと思うが、集会は五、
六十名の労働者が参加して昼過ぎに開かれ、司会者が挨拶をはじめて数分後に「弁士中止」がかかり
それにたいして「警官横暴」の叫びが起り、会場は総立ちとなった。その瞬間、待ち構えていた何十
名かの警官が襲いかかってきたのである。僕は二、三名の新人会員と会場準備と警備に動員されてい
たのだが、一網打尽の逮捕で忽ち数珠つなぎにされ、真昼間の街を警察署に連行されたのである。こ
の行列の先頭に真白な背広を着た背の高い美男子がいた。彼はこの日の司会者でもあったのだが、こ
れが大河内信威君であることはあとで判ったのである。この時は、二、三名の中心人物をのこして
二、三時間のうちに釈放された。僕はいいかげんな住所、姓名、職業を言ったのだが、疑われもせず
労働者たちといっしょに出された。これが僕にとってはじめての留置場入りだったのである。
            ◇
 『新人会年史表』を見ると、昭和二年の十月九日と一二日とに学連主催の社会科学大講演会が神田
基督教青年会館で催されたことになっている。九日は開会一〇分で解散を命じられたというから一二
日のことだと思うが、僕は新人会を代表して演説したことを億えている。アジのきかない講義風のし
ゃべり方をしたせいか「弁士中止」を食わずにしまいまでしゃべれた。僕にはもともとそんなしゃべ
103 若かった日の思い出
り方しか出来ないのである。高校時代に京都の岡崎公会堂でひらかれた雄弁大会で「中止」を食った
が、それは僕の演説よりも京大社研の連中が何十名もきてやんやと声援をおくってくれたことが警察
官を刺激してサーベルをガチャンとやらせたように思われる。あの時は「対立物の闘争について」と
いう演題をかかげていて階級闘争の必然性を「講義」したのだが、五分間ではろくな内容を盛ること
は出来もしなかった。社会科学大講演会のときはもっと時間もとれたので、「現代におけるマルクス主
義の意義」といったことをトツトツとしゃべったのである。僕のあとで大声でしゃべった弁士たちは、
みな二言三言で中止を命じられたのだった。
 十一月七日の新人会主催の労農ロシア革命一〇周年記念講演会のときは、僕達新人会の会員は会場
の準備や整備に動員されていたので講演は殆んど聞けなかったが、終ったあとのデモと本富士警察署
前の坐り込みには釈放をかちとるまで頑張ったのである。この日の朝、正門のところで登校する学生
にビラを配っていた三名の会員が校内にふみ込んできた刑事たちによって連行されたのである。この
不法な学園の自治権の侵害に抗議するため学生監を引張り出してデモの先頭に立たせ、署長とのかけ
合いをやらせた。二、三百名の学生が暗闇の中で坐り込み、やっと釈放させることができて、意気揚
々と安田講堂までデモをやって解散したのである。この時のデモの指揮者が誰であったかハッキリは
憶えていないが、田中清玄君あたりじゃなかったかと思う。
 この頃、新人会と七生社との抗争はかなり激しくなっていた。工学部の地階の広間で夜間に学友会

の会議がひらかれた時、七生社の連中が議長の佐多忠隆君を池にたたき込む計画をたてているという
情報が入り、僕達新人会員は総動員されて防衛にあたったことがある。相手は腕っぷしの強そうなゴ
ロツキ風の男が揃っているのに、こちらはー丹慶君や僕などその最たるものだがー喧嘩のやれる
者があまりいなかったのである。この時ばかりは、剣道何段とかいわれた浅沼喜実君の存在が光って
みえた。この晩は七生社は襲ってこなかった。
 この秋から冬にかけて数々の講演会が三〇番教室でひらかれたが、僕の記憶に残っているのは東大
と京大との共同の弁論会である。京大からは末川博教授が、東大からは河合栄治郎教授が弁論部長と
して演壇に立った。末川教授は練れた話術で、河合教授は持前の美声で聴衆を魅了した。学生は双方
から二、三名ずつ登壇したが、京大側の弁士に黒木重徳君がいて熱弁をふるったことを思い出す。
            ◇
 僕が清水町の合宿を出たのは昭和二年の十一月の末だった。それと共に僕の新人会会員としての活
動は終った。僕は労農党城南支部の書記として働くことになったからである。
 この書記転出のいきさつやそこでのいろいろな体験についてはあとで述べることにして、新人会時
代にめぐり会った人々について記憶に残ることを少し述べようと思う。
 大先輩では、まず志賀義雄君だが、書籍部の仕事で希望閣に出入りしていた時、西雅雄君らといっ
しょに何度か見かけたが言葉を交したことは一度もなかった。浅野晃君については一、二度演説を聴
105 若かった日の思い出
いただけである。小沢正元君は「学連」の元締めとして話を聞いた。鈴木小兵衛君だけは清水町の合
宿によく現われたので意外に親しく口をきいた。戦後御令息の盛二君が拙宅を訪ねてくれて晩年のこ
とを話してくれ、あの細々とした体つきと蚊の鳴くような声を思い出したものである。
 それに次ぐ先輩では、是枝恭二、曾田長宗、長尾他喜雄、久板栄二郎、石堂清倫、大間知篤三、入
江正二といった諸君だが、是枝君は淡徳三郎君、栗原佑君、岩田義道君らと共に京大事件批判演説会
で何回か熱弁をきかされた。早逝を惜しまれる人物の一人である。曾田、長尾の両君は「学連」のリ
ーダーとして、久板君は前記の「シラミ騒動」の張本人として、大問知君は合宿所の名義人でもあり、
僕たちと入れ替りに出て行ったがこの間何度か顔を合せた。戦後も会ったが、一度目は僕の縁者のあ
る民俗学者の葬儀で、二度目はーこれは会ったとは言い難いがー久我山のお宅での同君の葬儀
で。入江君は労農党の本部で働いていたが、出版のことで共生閣に来たとき二、三度顔を合せた。
 石堂君にはじめてー戦前ではこれが最初で最後だったのだがー会ったのは、今の西新橋二丁目
(当時、芝愛宕町三ノ四)あたりにあった関東電気労働組合の事務所でであった。用件は何だったか
忘れたが私用ではなかったことだけは確かである。終始にこやかな笑みを湛えて僕の話を聞いてくれ
た。同君のそばに西村祭喜君がいたが、彼も色白のキリッとした顔つきの中年の男だった。戦後、あ
る集りで一度会ったが、白髪で赤ら顔の老人からは往時を偲ぶものは何も見出せなかった。
高山洋吉君は産労にいたのだから昭和二年の春から夏にかけて僕が書籍部の仕事をしていたころ会

ったかも知れないのだが、何も憶えていない。また、西田信春君や中野重治君についても会った憶え
がない。先年、西田君を偲ぶ集りで往年の写真を見せてもらったが、何一つ思い出すことが出来なか
った。
 以上は、僕の入会した時にはすでに新人会を出て活動していた人たちであるが、この次の先輩達は、
同じ時期に会員でもあったので、接触する機会も多く、したがって印象にのこることも多いのである。
 戸田京次、沢田三郎、宮ノ下文雄、上平正三、安藤誠一の諸君は、清水町の合宿所で起居を共にし
たので、特に思い出すことが多い。これらの諸君は、甲南という特殊な学校から唯一人はいってきた
新入りの僕にたいして、何かとよく面倒をみてくれたし、誰一人として僕をスパイじゃないかと疑っ
たりした人はいなかったのである。
 島野、亀井、杉田、吉川(二木d、竪山、田中(稔男)、佐多、浅沼の諸君については、まえに少々
ふれておいた。
 片山さとし君とは合宿もちがい、時たま顔をあわす程度の交りだった。当時の印象としては「カミ
ソリ男」とでも表現するほかない人だった。同君とのほんとのつきあいは昭和十二、三年以後である。
 山根銀二君は、話をする時、長い頭髪がパラッと顔に下り、それをかき上げかき上げして如何にも
芸術家といったタイプの青年だった。太田慶太郎君は清水町での研究会でよく顔をあわせたし、緒方
渉、松本広治の両鴛とは僕が書籍部を担当していた頃、時折顔をあわせたことがある。
107 若かった日の思い出
 大山岩雄、渡辺武の両君はおなじ五高出身でよく一緒にいた。がっちりした体つきでなかなかの論
客だった大山君と、かばそい体つきで物静かな口のきき方をする渡辺君とは全く対照的なタイプの人
だったが、大変仲がよかったようだった。清水町の合宿所で短い間だが起居を共にした人たちである。
 小宮山新一君とはたった一度帝大セツルメントで会っただけだが、僕を労農党で働くための橋渡し
をしてくれたことで印象にのこる人である。
 同輩では石丸季雄、宮崎達(金沢)、田中宋太郎、小川治雄、千葉成夫、広瀬善四郎、田中清玄、武
石勉、丹慶与四造、満岡忠成、中野正人といった諸君が印象にのこっている。
 このうち、宮崎(金沢)、田中宋太郎、丹慶与四造の三君は合宿生活を共にした人々として数々の思
い出をのこしている。医学生の宮崎君は温厚な紳士だったし、五高出の田中君はちぢれた赤毛をもじ
ゃもじゃはやし熊本弁まる出しで人を笑わせるような話をよくした。丹慶君は痩せぎすのなよなよし
た体つきにも似合わず芯のしっかりした人で、彼とは何度も真剣に議論をしたことがある。
 小川、千葉、広瀬の三君は、入会した時はすでに学生運動のひとかどの闘士になっており、清水町
での研究会には殆んど顔を見せず、僕の知りえないところで大いに活躍していたようであった。
 小川君は「岩山」という変名を使っていたが、体つきから誰かにつけてもらったのかも知れない。
昭和一三年四月、京橋明治屋ビルの中央亭での千葉君の結婚祝賀会で二等兵姿の彼に会ったが、その
数ヵ月後に中支で戦死したことをずっと後になって知った。

 千葉君は小川君とは対照的な細身の青年で、弁舌はなかなか達者だった。彼とも十年余り隔てて前
記の祝賀会で会ったが、奇縁といおうか、その時の白いドレスをまとった美しい花嫁さんが、昭和八
年に日本堤署のブタ箱で知りあった「大尉の娘」近藤冨貴子さんだったのである。
 ながいブタ箱生活で青黒くくすんだ顔をした痩身の娘さんだった。体をひどくいためていたので僕
の妻が差入れてくれた「わかもと」や果物をおわけしたことがあった。それから五年の歳月を経て、
目前にいる花嫁さんがその人だったのである。
 会場ではお互いに判る筈がなかったのだが、記念写真の中に千葉夫人が僕を見つけ、上海から手紙
をもらってはじめてそれと判ったのである。戦後、引揚げてきた千葉夫妻と一度会ったが、意外に早
く千葉君は世を去ってしまったのであった。
 石丸、武石、満岡、中野の諸君とは研究会で顔を合せたし、講演会の準備や警備にいっしょに動員
された。武石君が黒い背広を着るとどこから見ても労働者としか見えなかった。彼が入会直後のメー
デーにデモに加わっているのを僕たちは路傍で見ていたが、うまく化けていたので警官に引抜かれも
せず帰ってきた。
 田中清玄君と僕とは清水町の合宿で暫くのあいだ起居を共にした。それだけでなく、何かと因縁の
深い間柄でもある。僕が甲南でドイッ語の手ほどきをうけた伊藤教授から彼も弘前高校で教えをうけ
ている。また彼のそこでの同級生に奉天中学で机を並べた戸叶宗雄君がいた。僕がこの男のことをた
109 若かった日の思い出
ずねると、田中君は「あれにはかなわんよ、何しろトルストイだのマルクスだのと言ったって位がな
いから偉くはないよと言うんだからナァ」という答がはねかえってきた。たしかに戸叶君は田中君の
言う通りの男だった。彼は東大を卒業すると警察官になり、戦後には警視総監をつとめるまでに出世
したのだから。この男は、最後には、ガン・ノイローゼとかで病院の屋上から飛び降りて死んでしま
った。
 性格的には田中君と僕とは全くちがった人間だと思う。彼はあらゆる動作が機敏であり、太っ腹の
ように見えて実は神経質であり、感情が露骨に出るのである。彼が本を読みふけっていた姿は、つい
ぞ見たことがないが、何んでもよく知っていた。論理的ではなく直観的な物の見方をする男だった。
だから、追いつめられた状態に陥った時、ピストルで武装することを考え出したとしても不思議はな
いのである。
 田中君は清水町の合宿を出てからどこに移り、どんな活動をしていたのかよく判らないが、この年
の十一月七日のデモでは指導的役割をしていたようだし、翌三年の二月には新人会自衛団の行動隊長
をつとめたことになっているところを見ると、そうした方面で大いに活躍していたのであろう。
 この田中君が、昭和二年の十一月だったと思うが、合宿にきて「吉山君、どこか外の団体に出て働
く気はないか」と言った。「大いにあるよ」と答えると、「じゃ、いっしょに小宮山君に会おう」と二
人でセッルメントに行った。

 こんなことがあってから暫くして、僕の労農党城南支部書記への転出がきまったのである。こうし
て僕の合宿生活も終り、新人会ともハッキリした脱会ということもなしに離れていったのである。ま
た、田中君ともその後一度も会うことなく今に至っているのである。
 ここで甲南高校出身で新人会に入った小場瀬君と島君について少々述べておこう。
 小場瀬君は甲南時代の文乙の同級生であり、いつも机を並べていたし、二人で図書部や弁論部を切
り廻しもした。彼は文学に熱中していたが僕は哲学と社会科学に熱中した。同君は一、二年の頃は純
然とした観念論者だったが、卒業の頃には唯物論に傾いていた。しかし、マルクス主義者にはなって
いなかった。東大にきてからもフランス文学の勉強に専念していたので、僕は新人会に入ることをす
すめはしなかった。
 同君が新人会に入ったのは、おそらく昭和三年の四月以降のことであろう。この頃、甲南で一年後
輩の島正夫君が新人会に入会したし、小場瀬宅には早稲田第一高等学院生の親戚で社研に入っていた
青年がおり、その関係で早大社研の中心メンバーだった町田敬一郎君がよく出入りしていた。こうし
た人々とのふれ合いの中で小場瀬君の新人会入りが実現したのかも知れない。
 九月二八日の豊島園事件の直後、僕は小場瀬宅を訪ねた。そして、同君から警官の襲ってきた時の
模様を詳しく聞いた。包囲されたので全員が四方に散った。同君は湿地のぬかるみを走り抜けて灌木
の繁みに身を隠し日没をもって滝之川の自宅に辿りついたということだった。その時、お母さんと姉
111 若かった日の思い出
さんが「卓三はこんなにどろんこになって……」と言って泥まみれのズボンを見せられたのである。
 小場瀬君はこれを機会に新人会を離れ、一切の社会運動からも遠のいて行ったのである。
            ◇
 労農党城南支部の書記としての僕の活動は、昭和二年の十二月から翌年四月十日の労農党解散まで
の約四ヵ月間であった。
 清水町の合宿を出た僕は、巣鴨宮仲のあるしもたやの二階の三畳間に移った。ここは、前記の「資
本論講座」に来ていた高等師範の学生三名が共同で借りており、ここでは外から数名の学生を加えて
毎週研究会がもたれていた。この三名の学生のうち、一人は沖縄出身の阿里君、もう一人は対馬出身
の三宅君で、あとの一人の名は忘れてしまった。いずれも真面目な青年たちであった。
 この家の隣に沖縄出身の喜屋武保昌君が奥さんや子供と住んでいた。この人は新人会員で清水町合
宿で何度か顔をあわせたことがあったが口をきいた憶えがない。むしろ奥さんとは、井戸端で顔をあ
わせて、よく挨拶をした。そんな時、背中に負われていた坊やが三鷹事件で有名になった由放君だっ
たのである。父の喜屋武君は若くして逝かれた。
 労農党城南支部の事務所は芝区南佐久間町にあり、共生閣や俸給生活者組合本部とほど近いところ
にあった。僕がこの事務所を訪れた時には、サラリーマン出身らしい中年の男と労働者出身らしい若
い男とが働いていた。この中年男は闘もなく去って行って、労働者風の青年と二人で仕事をした。

 本部からきたビラやパンフレットを受持区域内の拠点となっていた工場や個人宅に配ったり、時に
は支部独自の宣伝ビラを作って配ったりするのが主要な仕事だった。一応、合法政党の印刷物ではあ
ったが、配布には尾行のことに神経をとがらした。工場内の労働者との連絡はかなりよくついていた。
ある工場でのことだが、窓に張られた金網の端に穴があけられていて、きめられた時間にその穴から
印刷物を突っこむと、にょっと手が出て受取ってくれたことを思い出す。
 御成門の協調会館で催された演説会には警備のために若い労働者たちといっしょによく出かけて行
った。昭和三年冒頭の総選挙のときには、あちらこちらの演説会場を走りまわった。大山郁夫、唐沢
清八、細迫兼光、難波英夫といった人たちの演説を何回も聞いたのはこの時のことであった。
 この頃に身近に起った労働争議は豊岡光学と乗合自動車運転手の二つで、これらをオルグしていた
人に二片栄司君がいた。僕は彼にくっついて争議の打合せの集りに出席した。彼はいつでも皆の言う
ことを静かに聞いて、その上で明確な判断を下した。豊岡光学の労働者では損田清、鶴田梅郎、自動
車運転手では竹内文治、木本栄の諸君、それに二片栄司君の五名は、僕がこの時期にふれ合った労働
者で、その優れた人柄は今も忘れることが出来ないのである。
 三・一五の弾圧の嵐は、これらの諸君を一挙に奪い去った。これらの諸君がその後どのような道を
歩んだかを、今もって知りたく思っているのである。
 労農党で働いた時期のことで思い出すことは、以上に述べたぐらいで、解散時にどんなことが城南
■Z3 若かった日の思い出
支部で起ったか、どのような手順でこの仕事から離れて書斎に引籠るようになったか、さっばり思い
出せないのである。
           ◇
 僕は新人会時代から労農党時代にかけて共産党の活動に直接ふれたことは一度もなかった。自分か
らふれようとしなかったばかりでなく、いつもその圏外におかれてもいたのである。この時代から、
僕が共産青年同盟の活動に参加し、入党もし、獄中生活を体験するに至った昭和七年以後の時代との
間には四年間の「空白」がある。以下、この「空白」時代について述べることにする。
 労農党での活動を打ち切った僕は、巣鴨宮仲から雑司ケ谷に移り住んだ。そこは鬼子母神に近い仕
立屋さんの二階の四畳半で、ここに昭和六年の春に結婚して青山師範の裏手の一軒家を借りて移るま
で三年半を過したのである。
 近くには雑司ケ谷墓地があり、漱石の墓碑などを見ながらよく散歩した。また、天気の好い日には
下落合から哲学堂まで足をのばしたこともあった。
 書斎に閉じこもった僕は、マルクス主義の研究をふり出しに戻ってやり直すことに没入した。レー
ニンの『カール・マルクス』を思想体系の骨子として、それぞれの構成部分について重要文献を読ん
でいったのである。レーニンの『唯物論と経験批判論』と真剣に取り組んだのもこの時期のことで、
これによって『フォイエルバッハ論』にたいするそれまでの理解を一段と深めることが出来た。

 法政大学教授の三木清氏が『唯物史観と現代の意識』という著作をもって論壇に登場した時、激し
い怒りを感じて反駁文を書いたのはこの頃のことである。ハイデッガー流の実存主義をマルクス主義
哲学に接木しようとする企てを、あたかもマルクス主義哲学の創造的発展であるかのように受取られ、
プロレタリア科学研究所の中でも大きな影響力をもつに至っていたことに、僕は我慢が出来なかった
のである。
 それに劣らず腹が立ったのは、三木哲学を謳歌していたプロ科の理論家たちが、ひとたびその反マ
ルクス主義本質が批判されると、間髪をいれず反三木哲学の論文を書くという無節操さであった。
 『唯物論と経験批判論』を土台にふまえて執筆した僕の論文は、岡崎武君と共同で出した雑誌『マ
ルクス主義研究』に織田二郎というペンネームで掲載したが、今は失われてしまって読みかえしてみ
ることも出来ない。
 この雑誌の発行は、昭和五、六年の僕の生活で多少なりとも外向きの動きを示すのであった。幸い
この雑誌の第二巻第三号と第三巻第「号の二冊が手許にのこされているので、これを頼りに当時のこ
とを思い出すことにしよう。
 この雑誌は、古い社会主義者の山内房吉氏を編集発行人として国際思潮社から出されていた『国際
思潮』を改題し、新しい編集方針のもとに発行をつづけたものである。第二巻第三号の編集後記を見
ると、「吾々は今後すべての真実なるおがマルクス主義理論家が、本誌において、根本的、理論的な
115 若かった日の思い出
諸閏題の研究を発表し、且つ論議することを衷心から期待する。また、わが国労働者階級の状態に関
する調査、資料等の寄稿をも歓迎する」となっている。
 だが、『マルクス主義研究』と改題してから出された十数号の執筆者は、岡崎武君と僕との二人だけ
で、編集上の一切がおれおれ両人にまかされていたのである。
 ここで岡崎君と僕との交友について述べておこう。僕が同年輩の岡崎君を知ったのは、彼が共生閣
から『国家と革命』の完訳を出した昭和三年の一月頃のことである。その頃僕も『背教者カウツキー』
の翻訳をすすめていた。彼のこの邦訳は素晴しく立派なもので、当時の活動家たちが革命理論を習得
するのに大きな援けとなったのである。彼は中学を卒業しただけだったが、英語と独逸語の学力は抜
群で、僕などの遠く及ぶところではなかった。彼は山川氏の影響で社会主義の道を歩むようになった
が、山川イストではなかった。福本イズムには強く反擁していたが、労農派にも追随しなかった。こ
うした彼の思想傾向が、彼を共産主義運動の本流からはずれさせたように思われる。
 岡崎君との交友は、雑誌の共同編集で深まり、昭和六年の春までつづいたが、その発行が止まると
共に、交友もまた断たれてしまったのであった。そうなっていったのには、日本の共産党と共産主義
運動にたいする態度で、二人の間に意見のちがいが深まっていったことが根底にあった。僕が当時の
運動にたいして、批判的でありつつも、何らかの協力をしようと心がけていたのにたいし、彼の方は
ますます反擾心を深めていったからである。

五、六〇頁の薄っぺら薙誌で、一千部ぐらいしか印刷しなかったし、論文としては僕(織田二郎)
と岡崎(永井直)という無名の虫目年餐目いた二本だけで、あとは翻訳もので補っていたのだから、世
間一般は勿論、左翼陣営からさえ問題にされなかったのは、当りまえのことだった。
だが、僕自身にとっては、雑誌発行の仕事は、三年間の蟄居生活の中に一つのはげみをつけてくれ
たことで意義深いものであったのである。今、手許にある第二巻第三号の昇証法の基礎的法則につ
いて」を読んでみて、あの頃の自分がどのように真剣に理論研究をしていたかが窺い知れて、一しお
感慨深く思うのである。
山内君も岡崎君も、戦後間もなく他界してしまった。いろいろと意見のくいちがいもあったし、ま
た感情のもつれもあった。しかし・れらの人々は、僕の生涯の忘れる・とのできない人たちである。
今、手許にある「マルクス主壽究」の第三巻第一号(昭和六年二月発行)を見ると、巻頭論文と
して永井直の「農業問題と非マルクス主義的理論’(二)」が載っており、山田栄吉という人の「日本農
民の階級構成とその発展の傾向」という論文を鋭く批判している。また、織田二郎は、前号につづい、
てレーニンの『カル.マルクス』の「マルクスの経済学説」、「社会主義」、「プロレタリアートの階
級闘争の戦術」の項を訳出、それに前文を付して、マルクスの全見解を根本的に理解することの重
要性を強調し、「…後衛の理論と実践に、『前衛』のレッテルを貼ったのでは充分でない」と結んで
いる。

 更に、永井が書いた編輯後記を見ると、のちに「政治テーゼ草案」が提示した「新しい戦略及び戦
術」を取り上げて批判し、それが「わが国現在の客観的状勢に適応せるものというよりは、寧ろ運動
の動揺と分散とを反映せる此等立案者たちの心理状態に適応せるものというべきであろう」と述べて
いる。
 運動の外に身をおいていた者のこうした声が間断ない弾圧下で苦闘していた人々からは、一顧だに
価しないものと思われたであろうことは想像に難くないのである。
 雑誌『マルクス主義研究』はこの号で第十七号を迎えたが、正確には判らないが、これを以て廃刊
されたように思う。
 僕はこの三力年間に雑誌の仕事のほかに、若干の翻訳をもおこなった。その一つはポポフの論文
『同盟軍としての農民』をドイッ版『マルクス主義の旗の下に』から訳出し、共生閣から発行した。
 また、コミンテルンの諸決議を翻訳した。そのうち第六回大会で採択された「綱領」と「帝国主義戦
争に関する決議」は、浄書して共産党の資料調査部に提供した。それは、昭和六年の秋だったと思う。
 その仲立ちをしたのは、甲南の後輩で全協のオルグだった池山君(甲南時代、ドイッ語を教えてい
ただいた恩師池山栄吉先生の令息)である。そのあと昭和七年の夏だったと思うが、彼が共産青年同
盟の中央委員で資料調査部の責任者だった小松雄一郎君を紹介し、その委嘱で「ワルシャワ市電スト
ライキの教訓」をはじめ幾つかのパンフレットを翻訳した。レーニンの『社会主義と戦争』を同盟員
-
の必読文献としてガリ版刷りのパンフレットを作ることにも協力したことを憶えている。
 このような活動を通じて僕自身共青のメンバーともなり、入党もした。そして中央委員の前沢雅夫、
石井照夫とも知り、行動を共にしたのであった。この時期には委員長の源五郎丸芳晴とは会わなかっ
たが、のちに千葉刑務所で顔をあわせた。また、中央委員で極悪のスパイといわれる三船某とは一度
も会わなかった。
 共青での僕の活動は、資料調査部から機関紙部に移り、『無巌青年』『レーニン青年』の編集にたず
さわり、昭和八年七月十五日検挙されるまでつづいたのである。僕の検挙は神田駅のそばで印刷部責
任者の武井武夫君と連絡中待ち構えていた数名の私服警官に襲われ、真昼間の人だかりの中で格闘の
末しばり上げられたことを思い出す。あとで判ったことだが、武井君の部下の学生がその前日つかま
って連絡場所を吐いたことから、僕に会うまえから尾行されていたのである。
 僕が共産青年同盟で活動したのは、昭和七年の夏から翌八年七月に検挙されるまでのまる一力年間
で、僕達夫婦は下谷区の道灌山停留所の近くの染物屋(浜川順市さん)の二階に住んでいた。妻は東
京市社会局の玉姫方面事務所で働いていた。僕は知人の南助松氏に頼んで同氏が発行していた『淀橋
民報』の社員ということにしてもらっていたのである。
 共青時代の僕の政治見解は『三二年テーゼ』にもとつくものであった。昭和七年六月に日共中央委
員会が出したパンフレットでこの「テーゼ」を知り、これまで自分が抱いていた綱領的見解と完全に

合致すると確信したのである。だから、共青での活動中も、獄中も政治方針では『三二年テ!ゼ』一
本で貫きとおしたのである。
 佐野、鍋山の転向が問題になった時、僕は『レーニン青年』に批判論文を執筆した。その前半は印
刷されたが、後半は僕が検挙されたのでどうなったか判らないが、その頃共青の組織は壊滅的打撃を
うけたのでおそらく印刷されなかったことと思う。
 公判廷での僕の陳述もこの『三二年テーゼ』に依拠したものであった。傍聴人といっても僕の母と
兄、妻とその両親ぐらいのもので極めてさびしいものだった。だが、これが最後の機会だと考え、か
なり時間をかけて陳述した。その最後を「真理をすてて生くるよりも真理と共に死ぬることを望む」
というソクラテスめいた言葉で結んだ。弁護人は河上丈太郎氏であったが、僕の陳述があまりハッキ
リしたものだったので、何も弁護する言葉がなかったようだった。すでにこの頃は左翼の弁護士も次
々と検挙される有様で、公判廷で検事と論戦をまじえるなどということは弁護士にできることではな
かった。
 一審判決の五年が控訴で四年にまけてもらい、僕は千葉で服役した。留置場から市ケ谷へ、市ケ谷
から千葉ヘストレートにかけ抜けて、仮出獄で出てきたのは、昭和十一年の暮れ近くであった。妻一
人が着替えを持って千葉刑務所に迎えに来てくれた。電車で荏原区旗ケ丘の妻の実家に向い、ここに
一先ず腰をおろしたのである。

 今は亡き人たちであるが、妻の両親はわれわれの運動に格別の理解があったわけではないが、監獄
にしばしば訪ねてきてくれたし、僕の不在中の妻の生活を温くまもって下さったのである。僕は、こ
の人たちからこの苦難な時期にうけた温情にたいし衷心から感謝せずにはおれないのである。
 最近になって共青時代に財政部の中心人物だった鶴丸昭彦君が、昭和七、八年頃の共青の活動につ
いて克明な調査をはじめている。彼は当時の活動家を一人一人訪問して対談している。各人の記憶し
ていることを聞き、人脈を明らかにしてゆくにつれて浮び上ってきたのは、敵がつくり上げていた同
盟内のスパイ網である。当時、われわれも非合法活動についていろいろと工夫をこらしたのであるが、
敵はそれにまさる工夫をこらして入念にこのスパイ網を張りめぐらしたのである。
 鶴丸君のこの仕事も近く一応の完成をみるということであるから、それを待って僕の共青時代の思
い出をより正しくより詳しく述べようと思う。
 大正の末期から昭和十一年までの時期をくぎって自分の歩んできた道をかえりみて、何よりも喜ば
しく思うことは、何の疑念もなく一つの思想に生きることが出来たことである。この一つの思想を僕
の脳裡に深く刻みつけてくれたのは『フォイエルバヅハ論』であったのである。だから僕は、自分の
棺には何よりも第一にこの本を入れてもらうことを念願としていることを記して、ひとまずこの稿を
終ることにする。
                                      (一九七四二6
  (註)この文章は石堂清倫.堅山利忠編「吏京帝大新人会の記録」に寄稿したものである。
或るささやかな集りの思い出…-務台理作さんを偲びっっ
121 或るささやかな集りの思い出
 ここで「或るささやかな集り」というのは西武池袋線中村橋駅に近い田辺振太郎君の書斎を根じう
にした十人あまりの人々の小さな集りのことである。
 それは昭和三十九年の十一月から四十二年の春まで、約二年間つづき、その間に二十回ほどの集り
をもったのである。
 この集りの発頭人は田辺振太郎君で、最初の相談あいてとなったのは山田坂仁君であった。そして
この集りに招かれたのは長老格では務台理作さんと出隆さんの二人、少し若い方は高桑純夫、浅田光
輝、篠崎武、物部長興、鹿島保夫、今正一の諸君と私であった。
 田辺君と山田君とは終始世話役をつとめ、月に一回あるいは隔月に一回、午後の一時から五時頃ま
でひらかれた。はじめには予めきめられていたテーマで担当者が報告と問題提起をおこない、ついで
自由な討論がかわされ、あとは心おきない雑談に花を咲かせたのである。
 十年もまえのことで、私の記億もさだかではないが、思い出すことを記すと次のようなテーマが取
りあげられた。


これは、『はこべら通信』に掲載されたものです。『はこべら通信』は19803月から82年の初めまでだったと思いますが、広島(小畑道弘氏発行者)で発行していた月刊のミニコミ誌です。

 久保田さんの「思い出すことなど―戦前の労働運動の経験から―」は809月から8112月まで掲載されたものです。

思い出すことなど

―戦前の労働運動の体験から―(1)

久保田 敏

 七月末のことである。

 総評教宣局の龍井葉二という人から電話がかかった。用件は「元総評事務局長高野実氏(昭和四九年死去)の遺稿集をまとめているが、参考のため全評(日本労働組合全国評議会)の関係者から、当時の活動状況など、直接聞きたいので、近日中お訪ねしたいが都合はどうだろうか」というのである。

 私は当時の資料など保存していないし、期待にそえるかどうかわからないが、思い出話くらいならできるでしょう、と答えた。

 龍井氏は原水禁広島大会の行事を終った八月六日の夜七時すぎ私のアパートを訪ねて来られた。

話は昭和五、六年の労働クラブ排撃同盟の活動から全評結成に至る経過、私の運動歴、さらに高野実氏と私との関係などが中心だった。話は十一時すぎまで続いたが、話しているうちに、私の記憶に間違いがあったり、質問されるなかで忘れていた事実を思い出したりして、私にとっても大変有意義な四時問だった。だが、その時の話をそのまま書いても興昧はあるまいし、また単なる運動史ならすでに多くの出版物が出ているので、ここでは当時私が体験したことや、運動のなかで知り合った人びとの〃人間模様〃などを、思い出すままに書いてみよう。

 労働運動史によると、全評の結成は昭和九年十一月十八日となっているが、私はその前年の昭和八年十月に検挙され、十一年九月まで獄中にいたので、全評の結成大会には出席していないし、全評の運動にもほとんど参加していない。だが、全評結成のきっかけをつくったのは私だったと今でも自負している。まずそのいきさつから話をすすめよう。

 昭和五年の十月だったと思う。日本海員組合と総同盟が中心になって、月本労働クラブの結成が提唱された。当時は世界恐慌の最中で工場閉鎖があいつぎ、全国各地にストライキが続発した。労働運動は大きな困難にぶっつかると同時に、非常な高まりを示した時代でもあった。労働クラブはこうした情勢の中で提唱されたのである。

 その趣旨は三反主義、つまり資本主義、共産主義、ファッシズム反対のスローガンの下に、これに賛成する組合で話し合いの場をつくり、広く労働戦線の統一をはかろうというものである。この提唱は大きな反響を呼んだ。とりわけ当時"合法左翼"といわれた全労(全国労働組合同盟)は、クラブに参加するかしないかで大きく揺れ、クラブ反対派は排同(労働クラブ排撃同盟)を結成してクラブ反対と労働戦線の右翼的統一反対の、闘いを展開した。当時、全労三万人のうち、関東地方を中心に二万人が排同に結集した。(この数字は私の記憶であって必ずしも正確ではない)

 しかし、その後排同の中から全労に復帰したり、独立する組合や支部、分会が出たり、 一方全労の全国大会を通じて分裂は決定的となり、昭和七年三月、排同の提唱で全労全国職場代表者会議を開催し、排同を改称して全労統一全国会議とあらためた。

 そして、これを機会に事務所を下谷稲荷町の古沢ビルの一室から、浜松町に移した。場所は 現在の国電浜松町駅から歩いて五分位の裏通りだった。事務所といっても普通の住宅で、入口に一坪の土間があり、その横に三畳、奥に六畳と半坪位の台所があり、二階は通りに面して八畳、裏側に四畳半と物干し場がついていた。これでも当時の左翼系労働組合の事務所としては広い方だった。

 私たちがここに事務所を構えてから間もなく、同じ裏通りの五十メートルほど先に労農党系の総評(日本労働組合総評議会)が移ってきた。総評の事務所は通りから直接階段を上がった二階の六畳と四畳半の二間だけで、私たちの事務所よりずっと狭かった。

 余談になるが、私たちの事務所から一〇〇メートルばかり離れた裏通りに電球工場があった。電球工場といっても電球を製造するのでなく、電球に何か加工する小さなバラック建ての町工場で、隣りの空地から中を見ると、女工さんをまじえた十人ばかりの労働者が働いていた。そして空地を隔てて通りからよく見えるように大きな文字で「松下電気工業所」と横書きした看板がかかっていた。これが現在のナショナル松下幸之助翁の最初の工場だったということを、戦後二十数年たってはじめて知って、人生行路の移りかわりの激しさに感懐をあらたにした次第である。     (続く)

 

―戦前の労働運動の体験から―(2)

久保田 敏

 統一会議と総評議会の事務所は近かったので、私は時どき総評議会を訪ねて、書記長の田部井君と世間話しや労働運動の問題などについてよく話し合った。事務所には田部井君のほかに、私より一、二才年下と思われる青年が常駐していて、二人は自炊生活をしていた。

 昼頃になると、鳥打帽に度の強いめがねをかけ、相当くたびれた大きな鞄をぶらさげた山花秀雄君が顔を出した。山花君は演説はうまかったが、口かずはすくない方で、話しかけても、「ウン、そうだなあ・…」といった調子で、自分の方から積極的に話をもちかけてくることはすくなかった。

反対に田部井君の方は話し好きで、何となく人なつこいところがあった。田部井君は早稲田を出てから大山郁夫の秘書をやっていたが、労農党が解散禁止されてからは労働運動に専念するようになった。

 あるとき、内外情勢について話し合ったあと、田部井君は「こういう情勢のなかで、同じような方針をもっているわれわれが、やれ統一会議だ、総評だといって小さな殻にとじこもっているよりも、たとえ小さくても二つがいっしょになれば、倍ではなく三倍も四倍もの力を発揮できるのではないか、君はどう思うかね」と、統一会議と総評議会との合同問題を持ちかけてきた。私も田部井君の提案には賛成だったが、二人だけで今すぐどうこうできる問題でもないので、おたがいにそういう方向で努力しようということで、その時はわかれた。

 その後、私は機会をみて高野実君にこの話を伝えた。これについて高野君は、積極的に反対はしなかったが、総評議会といっても大した組織ではないし、二つがいっしょになったからといって大きな力にはなり得まい、と内心反対の様子だった。

その頃、高野君は「下からの統一戦線論」を強調していたので、あまり乗り気でないのは当然だと思った。そこで私はこの話を、統一会議の委員長だった加藤勘十氏に持ち込んだ。

 勘十氏は、「ぼくは原則的には賛成だが、その前に、先ずわれわれと総評議会の幹部との間で懇談会をもって、情勢分析や今後の方針等について話し合って見たらどうだろう。そのうえで合同問題を具体的に考えて見ようではないか。」という態度だった。その間、私は統一会議の中堅幹部にもこの問題についての意見を打診してみたが、ほとんどが積極的に賛成してくれた。

 そこで私はこのことを田部井君に伝え、機関の決定とか、組織の代表ということでなく、あくまでフリーの立場で、双方の幹部の懇談会を早急に開くことで意見が一致した。それから間もなくのこと、たしか昭和八年の夏だったと思う、統一会議の事務所で「懇談会」が開かれた。出席者は統一会議から加藤勘十、高野実、安本廣一、難波虎雄、それに私を含めた常駐の三名。総評議会からは田部井書記長、山花秀雄君のほか二名。

 懇談会で出た意見のくわしい内容は記憶にないが、当時はドイツにおけるナチスの拾頭、中国では国民党と中共との対立が激化して内戦状態、その間隙に乗じて中支派遣軍は増強され、政治に対する軍部の発言権は強まり、言論や労働運動に対する弾圧は日一日と激しくなって誰もが大規模戦争の危機をはだで感じる情勢だった。とりわけ労働戦線は労働クラブを中心にますます右傾化の方向を強める一方、共産党は右翼労働組合に天皇制打倒のスローガンを押しつけたり、メーデーに武装デモを指令するなど、ますます極左冒険主義的傾向を強めた。

 こうした情勢の中で"合法左翼"の中核を自任するわれわれが今こそ大同団結して闘わなければならないという点では意見が一致し、改めて第二回の懇談会を開くことを申し合せて散会した。

 前述した総評議会と統一会議の最初の懇談会が全評結成のきっかけとなったことは、その後の歴史的事実から明らかである。だが、私は二回目の懇談会がいつ開かれ、どのような結論が出たか全く知らない。それは次のような事件がおこったからである。

 第一回の懇談会から一ヵ月位たった昭和八年の一〇月のある日(日時は忘れた)、熱海の宗秋月君が統一会議の事務所を訪ねてきた。宗君は病気のため以前から家族と共に熱海で療養生活を続けていたが、数年前病気の方はほとんど回復した。そこで彼は当時丹那トンネル工事で働いていた一五〇〇名に達する朝鮮人労働者の組織化に着手、二年がかりで熱海口工事現場の七五〇名のうち約半数を組織化することに成功した。 (丹那トンネルは熱海と山一つ隔てた函嶺(かんなみ)の両方から工事が進められたので、 一五〇〇名の朝鮮人労働者は半数ずつ両方の現場にわかれて働いていた。)函嶺口の方は遠く隔たっているので数名の活働家に連絡がついた程度で、まだ組合をつくるまでには到っていない。だが、熱海口が旗揚げすれば函嶺口の組織化も急速に進むだろう、それにあと二年で丹那トンネルは開通する予定だ。

 そこで、まず熱海口で労働組合を結成し、要求書を提出することになったので、組合結成大会の準備とオルグをかねて、統一会議から一名のオルグを一週間位派遣してほしいということだった。

 統一会議では私を派遣することに決定した。

  私は翌日の昼すぎの電車で出発した。宗君からあらかじめ駅から自宅までの案内図を書いてもらっていたので、宗君の住居はすぐわかった。

宗君の家は熱海の町の中ほどから、海岸に出る途中の灌木にかこまれた所にあった。家族は奥さんと五才位の男の子と、三才位の女の子の四人暮らしだった。女の子の名前は忘れたが、宗君は男の子を"ダンケル"と呼んでいた。初めは気にならなかったが、ダンケル、ダンケルと呼ぶので、どう書くのかと聞くと、正式な名前は「団結」だが、朝鮮風に読むと"ダンケル"になるのだと、宗君は笑って答えた。宗君らしいと私も思わず苦笑した。彼の生活は楽ではなさそうだったが、食うに困るほどでもなかったようだ。

  夜になると朝鮮人労働者が二人、三人と集まり、全部で一五人位になった。この一五人が組合結成準備委員で、いずれも中心的活動家。危険な現場で働いているだけにみんな頑丈な体格で元気がよく、日本語も達者だった。宗君は私をみんなに紹介したあと、結成大会の準備を中心に議事は進められた。大会で選出する役員、要求内容など、重要事項はほぼ内定していて、それを確認したら、文書化するだけでよかった。あとは大会の日時、会場、大会の運営、動員対策だけだった。それも スムースに決まり、準備会は二時間位で終わった。

そのあと持参の酒とキムチで祝杯を挙げた。当然のことながら酒はみんな強いようだった。

 私は酒の合い間に、トンネル内での危険な作業の実情について聞いてみた。トンネルはすでに貫通し、現在は隧道のコンクリート作業がおもで、それほど事故はないが、掘削工事の頃は出水や落ばんで、何回となく多数の死者や怪俄人が出た。

したがって労働者の移動がはげしく、今ここにいる一五人のうち五年以上のものは半数位で、あとはまだ二年か三年位にしかならぬ。賃金は危険手当や諸手当を含めても日給一円五〇銭から二円どまりだ。 (当時の工場労働者の普通日給は一円二、三〇銭から一円五〇銭位だったと記憶する。) それでも朝鮮人労働者の一番の関心事は、丹那トンネルはあと二年位で完成するが、そのあとの仕事をどこに求めるかという、失業につての不安だった。当時はまだ失業保険も労災保険制度もなかった。

                (つづく)

 

―戦前の労働運動の体験から―(3)

久保田 敏

 

 その翌日から結成大会までの四、五日間は、宗君も私も目のまわるほど忙しかった。大会参加のアピール、大会提出文書(組合規約、簡単な運動方針等)の作成とガリ切り、会場の設営、警察への集会届の提出等々。

 トンネル工事現場は三交代になっていたので、宗君の家は朝から晩まで、朝鮮人労働者が三人、五人と入れかわり、立ちかわり詰めかけて、謄写版を刷ったり、連絡に飛びまわったりでにぎやかだった。大会が近づくにつれて組合加入者も五〇〇名に達した。

 大会の会場は町の繁華街にある熱海劇場だった。

劇場といっても寄席のようなもので、舞台の前は二〇〇人がやっとすわれる位いの畳敷きになっていた。当時の熱海にはこれより広い会場はなく、また夜間作業の労働者が多いので、この会場がいっぱいになれば、大会は大成功だ、と宗君はいっていた。

 大会はタ方七時から開かれたが、会場は絆天着や作業服姿の朝鮮人労働者でいっぱいになり、むんむんする熱気に包まれた。議事は予定どおり順調に進み、最後にメーデー歌と「丹那トンネル朝鮮人労働組合結成大会万才〃」を三唱、成功裡に閉会した。

 それにしても、このような集会は、東京だったら多くの場合、管轄の警察署長が臨検し、会場の警戒も厳重だが、ここでは熱海署が会場から近かったせいか、会場には警察の姿は全然なく、いささか拍子ぬけの感じもした。

 その晩は新しく選ばれた組合役員や活動家など二〇人ばかりが、宗君の家に集まり、要求書の提出やこれからの行動について協議したあと、例によって冷や酒とキムチで祝杯をあげた。

 翌朝、私はおそくまで寝かしてもらい、宗君の知り合いの旅館の温泉につかったりして、 一日をのんびりと過し、夕方東京への帰途についた。

熱海駅に着いたのは午後六時頃だったろうか。あたりはすでに薄暗くなっていた。

 私は待合室のベンチに腰をかけて東京ゆきの電車を待っていると、半纏姿のさっき別れた顔見知りの朝鮮人労働者二人が息をはずませて待合室に飛び込んできた。用事があるというので、待合室の外に出ると、低い声で「夕刊を見たか」と私に聞く。いやまだだ、と答えると、今晩の夕刊に、統一会議の事務所が家託捜索をうけ、加藤勘十以下幹部多数が今朝未明一斉検挙されたと出ている。

だから、いま東京へ帰ったらあぶない。熱海にアジトがあるから、しばらくそこで様子を見るがよいという。

 だが、私が熱海にいることがわかったら、こんな小さな町ではすぐつかまる。今後の対策もあるので、これからすぐ東京にかえる。知らせてくれて有難う、と二人に礼をのべ、私は待合室の売店で夕刊を三通りほど買って、すぐ次の電車に飛び乗った。

                 (つづく)

 (なお序でながら、私は宗君とはそれ以後ついに今日まで会うことはなかった。

 彼は戦後、第一回目か二回目の選挙で熱海市長に当選したことを新聞で知ったが、私より二つか三つ年長だったから、おそらくすでに故人になっていることと思う。)

 

―戦前の労働運動の体験から―(4)

久保田敏

 

 熱海駅で東京ゆきの電車に飛び乗ると、私は客車のすぐ入口の席に腰をおろして夕刊を拡げた。

見ると一面トップに「加藤勘十氏ら合法左翼一斉検挙」の大見出しで、統一会議の幹部はもちろん栗京交通、東京ガス、市従の首脳部、などもやられている。検挙の理由は、同年七月、反ファッショ統}戦線を中心スローガンに結成された関東地方労働組合会議に対する弾圧だ。

 私は電車のなかで考えた。このまま東京の組合事務所にかえればつかまるのは目に見えている。

かといって幹部は念部やられているし、目ぼしい職場活動家の家も張りこまれているにちがいない。

そこで直接運動に参加していないいわゆるシンパを次から次に考えた末、当時、東中野に住んでいた堀さんという人の顔が頭に浮かんできた。よし、塀さんを訪ねることにしようと心に決めて、品川駅で山手線に乗り換え、さらに新宿で中央線に乗り換えて東中野で下車した。駅には刑事らしい姿.はなかった。以前二、三度行ったことがあるので堀さんの家はすぐわかった。

 堀さんは五・六年も前に東京美術学校(芸大の前身)を卒業したが絵でめしの食える時、代ではなく、その頃流行の広告マッチのデザインなどして妻君と子どもを養っていた。それに家計の手助けにガリ版で商店などの広告ビラの印刷もやっていた。

 私がとくに堀さんをあてにしたのは彼がガリ版の道具一式を持っていることを前から知っていたからでもあった。

 私が訪ねると、堀さんはびっくりした表情で迎えた。私は検挙を逃れたいきさつを話すのもそこそこに、当時統一会議の機関紙だった「日本労働新聞」の臨時特集号の発行に取りかかった。私が原稿を書き、堀さんにガリ切りを頼んだ。内容は今回の弾圧に対する抗議闘争の呼びかけと、幹部は検挙されても職場、分会は微動だにせず反撃に立ち上がっている模様などを知らせ、横の連絡を強化することを訴えた。

 その晩二人とも徹夜でB5版裏表二ページの特集号五〇0部を刷り上げた、そして、翌朝、堀夫妻の協力、でガリ版刷りの「日本労働新聞」特集号を主要な支部、分会に郵送した。 (このガリ版新聞は大原社会問題研究所に所蔵されているという)

 その晩は早やめに銭湯でひと風呂浴びて、そのままぐっすり眠ってしまった。

 翌日、私は浜松町組合事務所がどうなっているか様子をたしかめたくなり、出かけることにした。

だが、おそらく警視庁の刑事が張り込んでいるにちがいないと考えたので、事務所の前の通りを何食わん顔で素通りして、横目で中の様子を見たが人の気配はない。念のためもう一度引返して家の中をうかがったが、ひっそり閑としている。しめたと思って事務所の裏にまわり勝手口の硝子戸を引っ張ると難なく開いた。ひよっとすると外で張り込んでいるかも知れないという心配があったので、家の中にはいると硝子戸を〆めて、念のため中からネジになっている鍵をかけようとしたが、硝子戸がくるっているせいかなかなか鍵がかからない。

三度目にネジを締めようとしたとたん、奥の方でカチリッという物音がした。おや、と思って部屋の中を見ると、六畳の間を隔てた表通りに面した四畳半の事務室に大きな男がオーバーを着たまま机に寄りかかって私の方をじっと見ている。この男は警視庁労働課の最上(もがみ)という刑事で、統一会議担当で三日にあげず事務所にやって来ていたので私とも顔なじみだ。

 瞬間、私もびっくりしたが、相手も動こうとはしない。二人の眼が相手を見すえたまま何秒たったろうか、私はうしろ手で勝手[[の硝子戸を引っ張り開けると、身を翻がえすようにして露路に飛び出し、一目散に空地を通り抜けて大通りに出た。

うしろを振り向くと最上刑事は靴下のまま私を追って来たが、空地の途中で追跡をやめて、棒立ちになったまま私の方をにらんでいるようだった。

 私はそのまま電車通りを横切って日蔭町の裏通りを縫うようにして新橋駅まで出て、山手線で新宿駅に下車、新宿の武蔵野館(映画館)に飛び込んで夕方まで時間をつぶした。 (つづく)

 

―戦前の労働運動の体験から―(5

久保田敏

 ひるまの街頭を歩くのは危険だと思って私は映画館に飛び込んだのだが、当時の武蔵野館は東京でも有名な洋画専門館だった。その頃はまだ白黒無声映画時代で、たしか「鎧なき騎士」を上映してたように記憶している。日が暮れたらすぐ飛び出す積りだったが、映画がおもしろかったので、つい時間を忘れてしまって、私が映画館を出た時は外は暗くなっていた。

 堀さんの家では、私のかえりが遅いので心配していたところだのつた。事情を話すと、まあよかったということで二、二日は外出せずに堀さんの家でごろごろしていた。

 一斉検挙があってから一週間か、十日位いたった頃、新聞の朝刊を見ると「加藤勘十氏釈放」という記事が出ている。私は近所の公衆電話で加藤氏に電話した。すると、大丈夫だからすぐ自宅に来るようにという返事だった。

 その頃加藤氏の家は目黒の大岡山の高等工業(現在の東京工大)の近くの住宅街にあった。加藤氏の奥さんは名は忘れたが星野姓を名乗り、 産婆さんをやっていた。美人ではなかったが背の すらりとした品のよい人で、私たち若い常任活動 家が行くと、めし時でなくても、「何もありませ んが」と、すぐあり合せのものを出してめしを食べさせてくれた。それが私たちには実にありがたかった。

  勘十さんは演説はうまかったが、人つき合いは 余りよい力ではなく、それを奥さんがカバーしていた。当時、東京五区といえば山ノ手 一帯のインテリ層の多い激戦区だった。そこを地盤に加藤氏 が戦前衆議院議員に当選したのは、半分位は奥さんの力だったといわれるほど、奥さんは賢夫人だった。戦後、加藤勘十夫人で参議院議員を長くやった加藤しずえ氏はいわゆる後妻で、`前夫人の星野さんがいつ亡くなられたか私ははっきり知らない。

 余談になったが、私は例によって奥さんの手料理でご馳走になったあと、加藤氏から一斉検挙について敵(警察)の意図や被害の範囲などを聞き、私の方からは熱海以後の活動を報告した。

 加藤氏の情熱判断によると、検挙はこれ以上拡大することはあるまい。高野、安平、灘波君らも近日中釈放されることになっている。君がつかまらなかったことは警視庁で知ったが、警視庁もそのままにしておくわけには行かないから一度は検挙するが、 一応の取り調べがすんだらすぐ出すといっている。君も顔を知られているし、いつまでももぐっているわけにもいかないのだから出頭して見た方がよいだろうという。私も加藤氏の意見に賛成し、その晩は加藤氏の家にとめてもらい、翌日加藤氏といっしょに浜松町の事務所に行き、加藤氏が警視庁に電話すると、大型乗用車で最上刑事が迎えにきた。そして、加藤氏も同乗して三人で鳥居坂警察に行き、そこのブタ箱(留置場)にぶちこまれた。長くても二十九日(当時の留置権は警察署長にあり、法律上期限は最高二十九日となっていたが、実際には"ムシ返し"といって幾らでも延ばされた。)したら釈放されると思っていたのに、そのままムシ返されて、ニヵ月ほど鳥居坂署にいて、それから原宿、水上警察、月島とたらいまわしにされ、翌昭和九年九月、治安維持法の違反で豊多摩刑務所におくられ、昭和十二年・九月、釈放されるまで警察のブタ箱に十一ヵ月、中野駅前にあった豊多摩刑務所と市カ谷拘置所でかれこれ三年を過した。

 

―戦前の労働運動の体験から―(6)

久保田敏

 ことしの冬は例年にない厳しい寒さだったが、二月中旬から急に春あいてきて、われわれ老人をほっとさせた。寒さは年寄りにとって大敵だからだ。だが、春にはまだ少し早やすぎる。三月に大雪の降った例もめずらしくない。もう一度寒さはぶり返すだろうと気にしていた。

 果たせるかな、二月二十六日は何年ぶりかの大雪だった。二月二十六日といえば、六十才以上の人なら誰でも思い出すのが、昭和十一年の”二.二六事件”だ。あの日も東京は大雪だった。私はあの事件を市カ谷刑務所の独房で迎えた。

 その頃、刑務所の起床時間は朝六時だったが、起床時聞にはまだ一時間はあろうと思われるのに、所内が何となくざわめいて目が覚めた。独房には時計の持ちこみは禁止されているので正確な時間はわからない。そのうちに廊下をせわしげに歩く看守の靴音が聞こえてくる。変だな、脱獄事件でもあったのだろうか、などと想像しながら寝たままじっと耳をすましていた。 (起床の号令がかかるまでは起きてはいけないことになっている)

 そのうちに「全員起床!!」の号令がかかった。

その声はいつもとちがって勘高く上ずって聞こえた。何かあったことはまちがいないが、それが何であるかは、さっぱりわからない。突然、隣りの独房から「コン、コン」と壁を二つたたいたので、こちらも同じようにたたきかえした。隣りの住人も変に思っていることがわかった。

 午前七時、 「配食用意〃」の号令がかかる。朝食だ。配食の号令がかかると、囚人(?)たちは箱膳の蓋にニュームの食器を二つ並べてドアーの前に立って配食を待っている。配食は看守と雑役囚の二人でおこなわれる。看守は右手に鍵をもって独房の鍵をあける。左手はめしと味噌汁を入れた桶をのっけた手押し車のハンドルを握っている。

ドアーがあくと雑役が左手に円錐形にかためた麦七分、米三分のめしを持ち、右手にひしゃくを持って味噌汁をつぐ、ドアーをあけ配食して、ドアーの鍵をかけるまでの時間はおそらく五秒とはかからないだろう。このような調子で何十と並んだ独居房にめしを配ばる。馴れとはいえ、まことに名人芸というほかはない。

 その朝、私は配食のことよりも、看守の態度から今朝の事件を読みとろうと身構えていたが、わかったことは、看守の表情がいつもとちがって緊張していたことと、いつもは足音がしないように草履をはいているのに、今朝にかぎって靴をはきゲートルを巻き、帽子のあご紐までかけていることだった。だが、それだけでも何か大事件があったことを知るには十分だった。

 しかし、私が二・二六事件を知ったのは、それから一カ月もたって、予審調書を取るために予審判事の前に呼び出されたときだった。

 私の担当だった宇都宮予審判事は、いつもとちがって、顔に笑みをたたえて突然、「君は二月二十六日の事件(その頃はまだ二・二六事件とはいわなかったようだ。)のことを知っているかネ」と聞いた。私はもちろん「知りません」と答えた。

すると予審判事は、青年将校を中心に一部の兵隊がクーデターのような事件をおこしたが、大事にはならず事件はすぐに解決した、と極めて大ざっぱな説明をしてくれた。そして、「君はどう思うか」と聞くから、私は「くわしい事がわからないと何ども云えません」と答えた。判事は「そうだろうなあ」と云って、予審調書に取りかかった。

 当時は思想犯に重大なニュースを知らせることは禁止されていたはずだが、おそらく青年将校の反乱という重大事件について、思想犯たちがどういう感想をもっているかを調査することが、予審判事のあいだで申し合わされたのではあるまいかと、私は推察した。

 二・二六事件からすでに四十五年たったが、奇しくも二月二十六日の大雪を見ながら、最近の自衛隊増強論や保守勢力内の改憲論議などを聞くにつけ、歴史は繰返すのではないかという一沫の不安が私の心の中をよぎった。(つづく)

 

思い出すことなど(7)

久保田敏

 豊多摩刑務所も市力谷刑務所(後に市力谷拘置所と改めた)も戦後廃止されてしまった。豊多摩刑務所は既決囚を収容し、市力谷はもっぱら末決囚を入れる所だったが、私は警察から直接、豊多摩刑務所におくられた。

 昭和七年頃から九年にかけて共産党はもちろん、その外郭団体と見られていた全協はじめ全農全国会議から文化団体、進歩的文化人、学者などの検挙が相つぎ、市力谷刑務所が思想犯で満員になったからであろう。

 私は昭和九年の秋から一年半ばかり豊多摩刑務所ですごし、そのあと逆に市力谷におくられた。

豊多摩刑務所は既決囚の収容所だけあって市力谷とは比べものにならないほど、ひどい所だった。

赤煉瓦二階建ての獄舎が四棟、扇子の形で放射線状に並び、扇子のカナメの位置に看守台があって、看守台に立つと四棟の獄舎が一目で見える仕組みになっていた。肉体的に苦しいのは冬と夏だった。

 冬は膝のあたりまで霜やけができて、夜布団の中にくるまっていると、霜やけが痒くなってなかなか眠つかれない。夏の暑いときは、高いところに鉄格子のはまった小さな窓があるだけで風通しが全くなく、空気のよどんだ房のなかはムンムンする熱気で、居ても立ってもやり切れなくなり大声でも上げないと発狂しそうな状態になる。 (刑務所で発狂するものがよくあるが当然だと思う)

 私は豊多摩刑務所に一年三カ月ばかりいて、そのあと市力谷刑務所に移された。市力谷は木造二階建ての二階の独房だったが、豊多摩と比べると、アパートにでも移ったような気がした。

 刑務所での一番の楽しみは本が読めることだった。豊多摩でも同じだったが、毎週一回「購入用意」の号令がかかって、しばらくすると看守がやってきて希望を聞いて記録する。購入品は菓子類、といっても飴玉か大福、せんべいといった程度、それに塵紙、タオル、歯磨粉に歯ブラシなど、書籍は辞書類は別として普通の読みものは一回に三冊にかぎられていた。本は何でも買えるわけではない。社会科学関係はもちろん禁止、小説でもドストエフスキーやトルストイ関係のものはだめ。

 私は満鉄時代にほんの片言(かたこと)だけ覚えていたロシア語をこのさい何とかものにしたいと思って、露和辞典とナウカ社発行の初等ロシア語教科書と文法書を注文した。それに甘いものが欲しかったので一つ二銭の大福餅五つ(五つ以上は許されなかった)

 日用品や大福は三、四日で手には入ったが、本はなかなか来なかった。その間の待遠しいこと。

それでも二週間ばかりして新しい本を手にしたときは、看守に聞えないように,万才`をさけび、じっとしておられず、本を両手に抱えて、子どもがはじめて絵本を買ってもらった時のように狭い独房の中を歩きまわった。

                 (つづく)

思い出すことなど(8)

久保田敏

 刑務所には、自費で購入するもの以外に、備えつけの「官本」というものがあった。毎週一回、官本の目録がまわってきて、希望の本を申し込めば、一週間に二冊の官本が借りられることになっていた。

 しかし、宗教関係の本だとか、修養や道徳関係のものが多く、読みたいと思うようなものは皆無といってよかった。それでも暇つぶしと思って、毎週二冊だけは借りた。なるべく面白そうなもの、そして何よりもぺージ数の多いものを申し込むことにした。ページの多いほど時間つぶしになるからだ。

 ある時、市力谷でのことだが、官本の目録に、村岡典嗣著「日本精神史講話」五〇〇ページというのがあった。村岡という著者がどんな学者かも知らないし、題名からして何か修養的なことでも書いてあるのだろうが、とにかくページ数が多いから借りて見ることにした。

 ところが配本されてびっくりした。そしてその本を読んで二度びっくりした。著者の村岡典嗣という人は東北帝大の有名な歴史学者で、特に文献考証学の大家だった。本はどこの出版社か忘れたが昔の菊版(大版)布表紙の立派なものだった。

内容は日本精神史に関する幾つかの論文をまとめたものだが、論文の内容が唯物史観の立場から書かれ、特にその中の一つの論文に、旧仙台領主伊達家の古文書の中から発見された東北水沢における「かくれキリシタン」二十数名を水責めにして処刑した奉行の覚え書数枚についての考証が書かれていた。古文書は覚え書とはいっても、処刑した信者の出身地と名前、年令だけを書いた単なる記録にすぎないが、処刑された中にポルトガルから渡来してきた日本名を五郎右衛門という宣教師(神父)がおり、この人物を中心に、仙台藩にどうしてこれだけのかくれキリシタンがいたのか、当時の東北の農村の状況はどうだったのか等々を述べたあと、殉教した神父五郎右衛門が鹿児島に渡来してから東北にたどりつくまでの苦難と経路などを、日本キリシタン史の定本といわれる「レオン・パジエス著、日本西教史」と関連させながら、日本西教史のあやまりを指摘するなど、その唯物史観的、科学的分析のすばらしさに驚嘆した。

 そのほかの論文にも教えられたものは多かったが、この東北水沢におけるかくれキリシタンの殉教史が、とくに強く私の心を捕えたのは、当時、日本共産党の佐野、鍋山をはじめとする共産党員の転向問題があり、これに反しかくれキリシタンが火刑、水責めにもびくともせず、よろこんで殉教してゆく姿を考え合わせて、共産主義とは何か、思想とは何か、そして宗教とは何かなどを、独房のなかでじっと考え続けたからであろう。

               (つづく)

(追記)この小文を書いたあと、人名をまちがえては申しわけないと思い、図書館で調べたところ、東京堂出版「世界人名辞典・日本編」に次のように出ていた。

 むらおかつねつぐ

 村岡典嗣 (一八八四〜一九四六)東京生まれ、早大卒、広島高師教授を経て東北大教授、日本思想史を学問として定着させた最初の学者。

 

思い出すことなど(9)

久保田敏

 昭和六・七年頃の中央線中野駅は乗降客も多かったが、貨物駅としても中央線ではかなり重要な地位をしめ、長い上屋のある貨物ホームが一本と三本の貨物車専用の引込線があった。

 駅の裏口を出た線路わきに日本通運の支店があって中野駅に発着する貨物を一手に取扱っていたが、実際の積み、降し作業は鈴木組という下請業者がやっていた。鈴木組には六十人あまりの労働者、いわゆる"駅仲仕"が働いていた。それが全員組織されて、全労日本運輸労組中野支部を結成していた。

 発送貨物は雑貨類など極くわずかで、ほとんどが到着貨物で石材、砂利、セメント、鉄材などの建築材料が多く、いまのようにリフトやクレーンなどはなく、すべてが肩から肩へ、手から手へのひどい肉体労働だった。年令は三十代が多く、それに四十代と二十代がそれぞれ十人位いた。賃金は日給プラス歩合制で(日給大体一円位だったと記憶している)労働時間は朝八時から午後五時となっていたが、実際には握めしと休憩に一時間とって、午後三時頃には作業を終わり、三時半か四時頃にはみんな職場を引き上げていた。激しい肉体労働だったから、それは当然のことだった。

 私はこの支部のオルグを担当していたので、月にニ、三回は必ず出かけた。引込み線のそばの空地に・四坪位の詰所があの、たので、昼の休憩時間や仕事のあと、全員を集めて支部の状況を聞いたり、他の支部の活動などを報告した。

 肉体労働者だけに、みんな純朴で団結は強かった。固定賃金(日給)にあまり差がなかったことが団結力を強めた原因だったように思う。

作業の大まかな指示は組の監督がやっていたが、細かい仕事の割り振りは支部長を中心とする三役が切りまわしていたので、組の監督というのは名ばかりで、大低は日通の事務所にいて現場にはあまり顔を出さなかった。職場の自由は完全に守られていた。

 この支部で二度ストライキをやった。一度は歩合率の引上げ要求で、二度目は固定日給の引上げだった。歩合の引上げは四、五日の作業ストップで解決したが、日給の引上げはなかなか解決しなかった。交渉は日通支店の事務所で、鈴木組の組長と私を含めた支部の三役の間でおこなわれた。

要求はたしか日給十五銭位の引上げだったと思うが、相手は「この前歩合を引上げたばかりだから日給の値上げには絶対に応じられない」という。

すったもんだのあげく交渉は決裂してしまった。

 サボとストを交互に十日も繰返したが、相手側の反応は全くない。最後の手段というので他支部からの応援を求めて、百人ばかりで職場大会を開いて気勢を上げ代表十名が新宿にあった鈴木組の事務所に押しかけることになった。

代表十名を中野駅の表側改札口までおくるため、支部の赤旗を先頭に全員が隊伍を組んで、線路ぞいの坂道を降って中央線のガード下に差しかかったところ、待ち状せしていた中野署の警官隊三十名ばかりに阻止され、しばらくもみ合ったが応援団をのぞき、支部員全員が無届けデモで中野署に連行された。

 全員ひとまず警察の道場に入れられ、私と支部の三役が留置場にぶち込まれたが、他の組合員は間もなく釈放された。そして支部長以下三役も夜になって釈放され、私はそのまま二十九日の拘留を言いわたされた。

 このストは私の拘留中に他の常任の手で解決され、妥結条件は日給一率十銭の値上げで一応の成功だった。

―河上肇博士のこと―

 鈴木組ストで中野署に検挙されたのが縁(?)となって、昭和七年の春から八年にかけての一年位の間に、かれこれ四、五回も中野署のブタ箱のごやっかいになった。 一年のうち半歳を留置場で暮したことになる。

 その頃、中野署の特高に小俣(おまた)という巡査部長がいた。小柄で一見紳士らしい風ぼうをしていたが、俊敏で冷酷で抜けめのない典形的な特高刑事だった。当時、中野から高円寺、荻窪にかけての中央沿線一帯は東京の新興住宅地で、左翼的なインテリゲンチャーの住居が多かった。そのため挙動不審とか、左翼的な出版物を所持していたという理由だけで小俣刑事の手にかかった人は莫大な数にのぼり、申野署のブタ箱はこれらのいわゆる思想犯でいつも満員だった。

 たしか昭和八年の春まだ寒い頃だった。私は中野駅前で、この小俣に呼びとめられ、「聞きたいことがあるから、ちょっと署まできてくれ」という。何の用だ、ここで話せばよいではないか、と反抗したが、「じゃあ、そこの交番まできてくれ」と、駅前の交番につれて行かれ、交番の正服巡査二人によって私は中野署に連行され、そのままブタ箱にほうり込まれた。たびたびのことなので留置場の看守とも私は顔なじみになっていた。

 看守は全部で四人、二人づつが一組みになっての一昼夜交替勤務だった。一人が二時間、留置場のなかで留置人を監視すると、あとの一人はその間、留置場のすぐ入口にある薄きたない二畳敷くらいの休憩室で休む。当時の留置場はどこでも不潔で一種特有の臭気が立ちこめ、初めてのものは幾ら腹が空いても一日や二日はめしがのどを通らなかった。とくに中野署のブタ箱は建物が古くて設備(通風、採光等)が悪い上に、留置人が多かったので全くひどいものだった。看守の勤務も大変だろうと同情したくなるほどだった。

 看守のなかに後藤という四十すぎの巡査がいた。

身長一・七〇メートル、体重八○キロもあろうと思われる堂々たる体格で、真黒い口ひげをのばしていた。

元陸軍伍長で柔、剣道とも三段とか四段とかいうもさだった。だが、性格は見た目に反しておとなしく、留置人には親切だった。

 私がほうり込まれた日は、後藤看守はちょっど明け(非番)でいなかった。翌日の午前九時に看守の交替と同時に留置人の点呼がはじまった。後藤看守が留置人名簿を片手に、各房の鉄格子の前に立って古い順に名前を呼び、首実験をする。

これは毎朝おこなわれるおきまりの行事だ。

 やがて後藤看守は私のいる房の前に立って、最後に私の名前を呼んだ。私が「ハイ」と返事をすると、「久保田か、君はまたきたのか」と、うす笑いをして次の房の点呼にうつった。間もなく全員の点呼がおわり、異常のないことを確認したあと、後藤看守が私の房の前にきて、私を鉄格子の近くまで呼んで小さな声で、「おい、きのうまでこの房に河上先生がいたんだよ」という。突さのことで、「河上先生って誰のことですか」と聞くと、後藤看守は「河上肇博士だよ、元京都帝大の勅任教授だよ」と、勅任教授に力を入れた。それもそのはず、当時は高等官の一等と二等を勅任官と言い、警視総官でも勅任官は少なく、警察署段階になると警部補(判任官)が四、五人、署長がせいぜい高等官六、七等というのが普通だった。

後藤看守などは生涯平巡査でおわる身だから、元帝大勅任教授の肩書きは、どんなにエライ人に見えたか察しがつく。

 河上肇が検挙されたことは私も新聞で知っていたが、市内の警察署をタライまわしされたあと、最後の一ヵ月をこの中野署のブタ箱ですごし、起訴されてここから豊多摩刑務所に収容されたのだった。

                 (つづく)

思い出すことなど(10)

久保田敏

 中野警察署の留置場に移されて間もなく、河上博士は後藤看守に「留置場の雑役をやらせてもらえないだろうか」と申し出た。

 後藤看守はびっくりして、雑役は簡単だが、あなたのような身分の人に雑役をやらせたことが世間に知られると看守の責任問題になり場合によっては私たちのクビが飛びますよ、と本気に取り上げようとはしなかった。

 当時の留置場では、逃亡のおそれのない留置人のなかから一人か二人を選んで、留置人に対する食事(弁当)やお茶のくばり、あと片づけそれに留置場内の廊下や便所の掃除などをやらせる"雑役"というのがいた。作業は簡単だが、短時間のうちに手ぎわよくやる必要があるので、比較的若い、そして留置場生活にある程度の経験のある、しかも長期の留置人がこの役に選ばれるのが普通で、多くの場合"地まわりのチンピラ"(つまり地もとの不良)や思想犯などがこの役を仰せつかることが多かった。

 雑役に対する報酬(?)は一日にタバコ一本か二本、それも留置場での喫煙は表向き厳重に禁止

されていたので、仕事がすむと雑役は便所のなかで看守からもらった一本のタバコを吹かすのが最高の楽しみだった。

 その頃、河上博士はすでに五十六、七才で還暦も近く、長い留置場生活のため体力も弱わっていたらしく、少しでも体を動かすことが健康のためよかろうというので雑役を希望したのだった。

 事情を聞いた後藤看守も博士に同情して、私の一存にはいかないが、特高主任と相談して署長の許可を得るように努力しようということになった。

署長も健康のため本人のたっての希望であれば問題はあるまいと、河上博士の雑役は間もなく本ぎまりとなった。

 このようにして、河上博士は起訴されて刑務所に送られるまでの二十日間あまりを中野署の留置場の雑役として過したのだった。

 生来、人一倍まじめで親切な河上博士の態度は留置人たちにも強い感動と尊敬の念をあたえたらしく、弁当やお茶をついでもらうたびごとに申し合わせたように、 「どうもすみません」と、異口同音に博士の労をねぎらったそうである。

 ある時、後藤看守が自分の靴をみがいていると、河上博士が「私にみがかせて下さい」というので、後藤看守は「先生に靴などみがいてもらったらバチがあたりますよ」と断ったが、どうしてもみがかせてくれというので後藤看守もことわり切れなくなって、とうとう靴をみがいてもらったそうである。

 後藤看守いわく、警察庁に何千人かの巡査がいるだろうが、勅任官の元帝国大学の大先生に靴を磨いてもらったのは、おそらくわし位いのものだろう、それにしても、河上先生のような立派な人が、どうして"アカ"になったのか、そこのところがわしにはどうしても納得がいかない、と後藤看守はしみじみとした調子で、河上博士の留置場生活の一端を私に話してくれた。

 周知のように河上肇博士は敗戦の翌年、つまり一九四六年(昭和二十一年)六十七才で亡くなったが、後藤看守の話は、博士の真面目で求道者的な一面を語るものとして、いまだに私の心の底に残っている。

 

思い出すことなど(11

久保田敏

 「林房雄」といっても、若い人たちにはそんな名前さえ知る人はすくなかろう。

 林房雄はペンネームで本名は後藤寿夫、 一九〇三年(明治三十六年)大分県生まれ、熊本の五高時代から社研に参加し、東大に進んでからは新人会の活動家として、大正末期から昭和初期にかけて学生運動で活躍する一方、多くの小説を書き、プロレタリア文学の旗手として、また新進作家として注目された。昭和四年の四・一六事件で逮捕され獄中で転向、昭和七年出獄してからも維新の志士たちをテーマにした小説「青年」や「西郷隆盛」などを発表して反響をよんだ。

 その後、彼は日本帝国主義の中国侵略を支持し、みずから進んで従軍記者を志願するなど左翼陣営にある種の衝撃をあたえた。戦後も引き続き幾つかの小説を書いたがあまり話題にもならず、その後「大東亜戦争肯定論」などを発表するに到って、左翼陣営だけでなく多くの知識人やマスコミからも総反撃を食った。そして昭和五十年、私は彼の病死を新聞で知った。

 私は林房雄と関係があったわけでもなく、直接話をしたこともない。ただある集会で二度ばかり彼を見た程度にすぎない。だが、私には今だに忘れられない彼にまつわるある〃事件〃の思い出がある。

 それはたしか昭和十七年のことだったと思う。

その前年の昭和十六年十二月六日、日本政府は「対米英宣戦布告」を発表した。つまり天皇の名による「宣戦の詔勅」である。すでにメーデーは禁止され、労働運動も骨抜きにされていたが、この「宣戦布告」を機にすべての大衆運動は禁止され、とくに思想弾圧は一段と激しくなった。

 思想弾圧の武器は治安維持法だったが、これと並んで保護監察法というのがあって、治安維持法に引っかかったものは、保釈中のものはもちろん刑期を了えて出獄したものでも、すべてこの法律によって監察官の監視下におかれた。つまり任所の届出を義務づけられたり、随時保護監察署に出頭を命ぜられたり、また月に一、二度自宅訪問と称して、監察官が本人の動勢をさぐりにきた。これに違反したり、監察官が「おかしい」と思ったら、いつでも警察のブタ箱や、刑務所に身柄を拘束することができた。さらに、それだけでは不十分だったのか、各府県ごとに思想犯だけの「更生会」をつくらせた。名目は生活相談とか、職業のあっせんとかを掲げていたが、実際は思想犯に対する集団的取締りの手段にすぎなかった。

 当時、私は横浜に住んでいたので、神奈川県更生会の会員になっていた。林房雄は鎌倉に住んでいて神奈川県更生会の会長をやらされていたようだ。

 大東亜戦争の宣戦布告のあった翌昭和十七年の夏の暑い日だった。神奈川県更生会の総会が開かれた。会場は横浜駅前にあった相模鉄道本社ビルの一階大広間だった。

 私も呼び出されたので出かけて見ると、壇上にはま新しい日の丸が掲げられ、壇の両側には来賓として県知事をはじめ地方裁判所長、検事長、憲兵隊長、警察部長、横浜市長などの席が設けられ、すでに何人かが着席していた。平土聞には更生会員が百名あまり神妙な顔をして長椅子に腰かけていた。総会でどんな行事がおこなわれたか、ほとんど記憶にないが、行事のなかで更生会会長が、「宣戦の詔勅」を朗読することになっていた。

 順番がきて林房雄が壇上に立った。その頃多くの人々は国民服を着ていたが、彼は純白の背広にネクタイをきちんとしめ颯爽としていた。彼はひものついた桐の箱をあけて「詔勅」を取り出し、うやうやしくひろげたまではよかったが、いざ、朗読をはじめると口をもぐもぐさせるだけで、全く声にならない。そして何秒かたったろうか、「ぼくはドモリで全然読めません。ダメです。誰かほかのものが読んで下さい」と言い残して、すたすたと自分の席にもどってしまった。

 一瞬、会場は白けたような、緊迫した重苦しい空気に包まれた。主催役の保護監察署長があわてて壇上に上がり、改めて詔勅を朗読してその場をつくろった。

 林房雄がドモリだったことはあとで知ったが、それにしても彼が降壇するときの言葉ははっきりしていたのに、詔勅が読めなかったのは、どうしてだろうか。実際にドモって読めなかったのか、それとも一つの抵抗としてわざと読めないふりをしたのか、あるいは彼の良心のどこかに残っていた反戦の本音が突然よみがえってきて、彼の意志に反して彼の口をドモらせたのか、いまだに謎(なぞ)として私の心に残っている。

 

 

久保田敏さんの略歴(作成:室崎宏治)

病床からの手紙 

忘れえぬ友 久保田敏君を憶う

野田弥三郎

労働運動研究 19867月 No.201

 ◇まえおき…十三通の手紙

一九八六年四月、二十九日、同志久保田敏が広島で逝った。彼が一共産主義者として、政治運動に、反核・平和運動に、また老人問題にどのように献身したか、また同志たちや市民たちとどのように深く交ってきたかについては、苦労を共にした多くの人々によって語られるであろう。だから私は、ここでは、入院直前から死に至るまでの四ヵ月のあいだに寄せられた十三通の手紙によって、彼の最後の心境を述べようと思う。

◇「自伝」執筆の構想

彼自身のこのたびの病の重さを感じとり、「これが年貢の納めどきかと覚悟していた」とも書いている。

だが、彼は余命のいくばくもないことを嘆くのではなく、やり残した最後の仕事をやり遂げようと強く決心して、直ちにその準備にかかったのである.その仕事というのは、「自伝」を書きあげることである。

入院直後の二月二日の手紙には次のように書かれているー

……ところで、突然のおねがいだが、昭和初期か、大正時代でもよい、東京市の地図(昔の本所、深川区から葛飾、浦安にかけてのものでもよい)が手に入ったら送って貰えないだろうか。……そこでふと思い出したのが例の深川の高橋から小名木川をつたって南葛を抜けて干葉県の浦安=行徳間を運航していた、いわゆる一銭蒸気船の労働者のことを書いてみる気になったのだ。それは私のささやかな運動経験を語ることにつながるのだ。:…・それには当時の地名や川の流れ、本所、深川一帯の環境など、どうしてもはっきりさせる必要がある。それで旧地図がほしいのだ。」(第四信)

神田で戦前版の複刻本をみつけ、それと最新版の東京都区分地図帳を送った。

だが、これでは「肝心の本所、深川の知りたいところが大ざっぱにしか出ていない」ので役に立たないから、もっと詳しいものを見つけてくれと言ってきた。二月十五日付の手紙でのことである。

ところが、この時点で彼のまえにもう一つ別の問題が提示された。それは、大阪で出されている『労研通信』の十五、十六号に載った河合恵君の「マルクス主義の再生のために」という論文に関連する思想問題である。

まず、「自伝」についての彼の構想を手紙によってはっきりさせることにしよう。二月二十二日付の手紙はー

……そこで撲にとって最も印象の強い一銭蒸気の労働者、純朴な、しかし荒荒しい労働と生活、それに寄食した半年間の僕の苦難時代から書き始めようと考えている。……

山陰の半農半漁の寒村で生れ、赤貧洗うが如き少年時代。高等小学校を卒業したばかりの十六歳の少年が、一人で下関から天長丸という貨物船に乗って大連に渡った時のこと。大連の満鉄従業員養成所に入り、そこを卒えて奉天駅の電信方として数年間働いたこと。そのあと駅員をやめて山口に帰り禅寺生活を一年間して東京に移り労働運動に参加したこと。芝浦での社外船スト、タグボートの乗組員の組織化。いろいろなテーマが次から次へと浮んでくる。問題はこれをどう整理し、配列するか、何を訴えるかということになると大きな岩にぶつかる思いがする。しかし、これが僕の最後の仕事だと思って何とかまとめておぎたい。本にするかどうかは考えないで虚心に書いて見たいと思っている。」(第九信)

「自伝」の構想はかなり具体的になってきている。古い地図の件も私が送った江東、墨田、台東、港の四冊の区史で希望がほぼみたされたようで、三月六日の手紙で懇切なお礼が述べられている。

◇思想的反省と勉学の情熱

次に、「思想問題」についして彼がどう対処したかを見よう。さぎに述べたように彼は京大の学生が肇自いた「マルクス主義の再生をめざして」という論文を丹念に読んだ。そして労研大阪支所に私にも一部送るように依頼した。これを受取った私は、論議にのぼる程のものとは思

われないので放っておくことにした。

久保田君は、私とはちがってもっと深刻に受けとったようで、二月十五日付の手紙には次のように書いている……

……かなり勉強しているらしく、ポイントを押えてなかなか説得力がある。つい反論したくなってペンをとったが、こちらからも5一度原典にたちかえって勉強する必要を痛感した。それで君の「今日におけるマルクス主蓑の世界観」、エンゲルスの「フォイエルバッハ論」、レーニンの「カール・マルクス」を読んでいる。たんに読むという受身の態度ではダメで、すすんで反論する姿勢をとったら新しいものが幾つか体得できたようだ。」〈第七信〉

三日後の二月十八日の手紙ではー前便でもちょっとふれたが、例の学生の論文をみて、感心すると同時に、おかしいそと思ったので、反論してやろうとしてペンをとったが、さて、自分自身がマルクス主義をどれだけ物にしているかと考えてみると全くゼロだということがわかり、君の「世界観」とレーニンの一カール・マルクス」を再読してみた。自分の不勉強だったことがよくわかった。ただ読んだということとそれを自分の武器として活用するということとは、全く別問題であることがよくわかった。

そう思って二つの文書を読みかえしてみると、マルクス主義の深遠な科学性と思考の武器であることが判りはじめ、今おりにふれ、じっくりと読みながら楽しんでいる。だが、これは僕だけの反省ではあるまいと思う。そういうわけで、目下、その方に重点をおいて、一銭蒸気の労働者の闘争は、時々構想をねる程度にして結構いそがしい入院生活を続けている。だが、絶対にムリをしないから」〈第八信〉

若い人の文章もおろそかにせず、それを「他山の石」として自らの知識の足らざるを反省するといった点は、如何にもこの人らしい態度と思うのである。

彼のレーニンの「カール・マルクス」にたいする傾倒は、ひきつづいて強まり、二月二十二日の手紙、三月一口の手紙、三月十八日の手紙とつづいてそれに言及し、根本的な思想改造へと進んでいったのである。その要点は――レーニンのこの論文には、随所にキラキラ光る珠玉があり何回読んでもこれでよいというには到らない。〈第九信〉

……二、三小説を買ってもらったが、この頃では小説に手がゆかず白然に「カール・マルクス」の方にゆく。それほどあの小論文は僕の精神を捕えている。あと少しで一応読了ということになる。あとはメモをみながら、いろいろな角度から疑問を解いてゆくつもりだ〈第十信〉

……例の「カール・マルクス」をようやく読了したメモをとりながらではあるが、ほぼ四十日かかった。今まで一冊の本も一つの論文も徹底的に熱続したことのない僕にとっては貴重な経験だった。まだ大きなことは言えないが、マルクス主義の全貌がおぼろげながらつかめたような気がする。それにしてもレーニンという人物は天才だ。

あれだけの小論文にマルクス主義の肝腎な諸問題を明確かつコンパクトにまとめたのだから。

勉強の方法にもいろいろあって、方法さえよければ難解な本も案外に読みこなせるが、方法をまちがうと努力しても結局やちまた〈八街〉の藪のなかをさまよう結果となって得るとは少い。

今から六十年近くまえのことだが、芝浦の海員組合の書記をやっていた時代、河上訳岩波文庫の『資本論』の第一分冊を読んだことがある。まるで代数の教科書みたいで、価値論のところは何回も読んだが、結局わからずじまいで終ってしまった。資木論の面自さというものは全然感じないで、むつかしい本だという印象だけが残っただけだった。レーニンの論文を読んで資本論の全体像がわかったので、おそまきながらこれからボツボツ資本論を読もうという気になっている。

僕のとったメモは大学ノートでほぼ四〇頁になったが、繰返し読みかえしてみると、次第にマルクス主義の中心問題が明らかになってくる。メモにも赤線のアンダーラインが段々多くなってくる。〈第十二信〉

なんという勉学の熱情だろう!八十一歳をこえ、病の床にある老共産主義者の言葉の一つ一つに真理を求める者の熱情がこめられていると思うのである。

三月十八日付の手紙のあと約一ヵ月私への音信は途絶えた。そして四月二十一日に代筆でー

全身の衰弱はなはだしく既に歩行困難。回復の見込み遠し、手紙を書くのもおっくうになった<第十三信>

◇むすび

「白伝」は構想のみでおわった。もしもそれを惜しむ読者がいたら、私の『一草園雑記・身辺雑記』の「友……人生行路の曲折におもふ」を見ていただきたい。

その時から六十五年の永い年月のあいだ、彼と私の交友はつづいた。別々の分野で活動はしたけれども、ただ一つの思想マルクス主義思想−で結ばれ、ただ一つの窮局目的―社会主義社会の実現―をめざして行動したのである。

(一九八六・五・二三)


友……人生行路の曲折におもう

野田弥三郎

「一草園雑記 身辺雑記」の中の「友」の項から19799

 京都の高雄のある病院で療養している旧友の久保田敏君からきた最近のハガキに次のようなことが述べられていた― 「先日の便りに満鉄時代のことなど書きはじめているとのことでしたが、時々思い出すのは押尾喜 代治氏のことです。彼については多くの思い出がありますが、その中で、今だに私の念頭を離れないものがあります。それは多分大正十年頃だったと思う。青雲寮でのことだった。彼が黒表紙のクロポトキン著『ある革命家の思い出』を私に見せたが、この本は彼が帰郷してのかえりの汽車の中で、中国の留学生からもらったということでした。その留学生の名は憶えていないが、当時のことだから、その後有名な革命家になった人物ではないかと思う。私の勝手な想像では、周恩来、郭沫若等このうちの一人ではないかと思われる。押尾氏は五〜六歳上だったから、恐らくもうとっくに亡くなっただろうが……一度墓参でもしたいと思っている」

 大正十年(一九二一年)というと、久保田君と私が十六歳、押尾君が二十一、二歳で、皆、奉天駅の電信方として働いていた時のことである。

 押尾君にクロポトキンの著書をくれたという中国の留学生が誰であったかは、詮索するすべはないが、久保田君の想像もあながち否定し去ってしまってよいものでもあるまい。

 それはそうとして、押尾君という人は、私にとっても尠らず思想的影響をあたえた人物である。その風貌は、写真でみるトロツキーとよく似ていた。顔は角ばって大きく、目は優しさの奥に鋭いものを秘めており、髪はムジャムジャと盛り上っていた。彼は早くからツルゲーネフ、ドストエフスキー、トルストイなどの著書を読み、福田徳三や河上肇の著書も見ていた。そして郷里の静岡に帰省した時は、東京に出ていろいろな人物を訪ねたようである。私が青雲寮に彼を訪ねた時.福田徳三博士に会った時のことを話してくれたのを憶えている。また、ツルゲーネフの「父と子」についての話の時、ニヒリズムとかアナーキズムという言葉が彼の口から出て、私を驚かせたのである。

 十五、六歳の頃は、私もひとなみに文学青年だった。立川文庫の武勇伝ものを卒業して、新潮社などから出されていた一葉、樗牛、透谷、独歩、紅葉のものなどを貧り読んだ。島田清次郎の「地上」の第一部が出た時は胸をおどらされた。また啄木の歌をかなりよく暗記して口ずさんだのもこの頃のことである。

 私がトルストイの「復活」を相馬御風訳で読んだのは、この押尾君の影響によるところが大きかった。この時は、徹夜勤務から帰って一ねむりしたあと、家の片隅に机をおいて夢中で読んだ。家の人人とも殆んど口をきかなくなって、どうかしたのかと怪しまれたりしたのである。

         ◇

 押尾君も久保田君も私も、みな高等小学を卒えて、大連にあった満鉄の従業員養成所に入り、六カ月の電気通信技術を学んだ仲間である。奉天駅勤務を命じられ、三、四十名いた電信方と一昼夜交替の辛い勤務に耐えて働いた。

 私は大正八年から十一年(一九一九ー二二)までのまる三年間ここに勤めたが、大連ー長春間の中央に位し、安奉線の起点でもあって奉天駅は重要な役割をもっていた。したがって、奉天駅の電信室には、四、五十名の電信方が配属されていた。この電信方のうち三十歳以上のものは十名ほどで、十代、二十代のものが圧倒的に多かった。それが二班に分れ、一つの班が朝八時から翌朝八時まで働いて他の班と交替するのである。この二十四時間勤務中、午後十時から午前一時まで四時間その半数が就寝し、他の半数はそのあと四時間就寝するのである。

 寝室といっても日当りの全くない六畳ぐらいの部屋で、薄汚いせんべい蒲団の上にゴロ寝するのである。電信方の仕事は、肉体労働ではないがひどく神経を疲れさせる。深夜の受信と送信は、馴れていても体にこたえる。列車が動いているかぎり、電報が発信される。各駅での貨車の連結と切離しがあるからである。ひとたび事故でも起ったら、何十何百通もふえるのである。

 ここでの勤務中、親しい若者が何人も結核でたおれていった。その一人、菊島亀一という山口県下の室積町(現在は光市)から南東に一キロばかり離れた牛島という瀬戸内海に浮ぶ小さな島の出身の若者のことが思い出される。彼は久保田君や私より一、二歳年長で小柄な男だった。早く父を亡し、母と二人暮しの貧しい生活の中で高等小学を卒えると満鉄の養成所に入り電信方となったのである。

ふりかえってみて、彼は天才的な頭脳の持主であった。字の美しいことでは及ぶものがなかったし、土井晩翠の詩を愛しその殆んどをそらんじていた。この菊島君も押尾君をとりまく若者たちの一人であったが、十九歳の頃、結核に冒され奉天の満鉄病院に入院し、のち郷里に近い虹ケ浜の病院に移り、二十四歳の若さで母をのこして死んでいったのである。彼が久保田君に遺した絶筆は、一枚の和紙に「衰弱甚しく 死の遠からざるを思う」と、みごとな字が墨書されており、今もなお久保田君の文書箱に保存されているとのことである。

            ◇

 私が駅員として勤めるようになった大正八年は、一九一七年のロシア革命の翌々年である。この歴史的大事件も、その頃の私には、十四歳の少年ということもあって、なんの関心もひかなかった。大正九年五月に起った尼港事件は、新聞が大々的に書きたてたこともあって、パルチザンは残虐非道な悪党共だと思い込んでいた。

 先輩の押尾君の話に耳を傾けるようになったのは大正十年になってからである。彼自身、その頃には月並みのヒューマニズムからは一歩抜け出ていたものの、社会主義とか共産主義というところまでは進みえていなかった。彼はそれ以後もそうした方向に進まず、ニヒリスチックな思想を抱いたまま若くして世を去ったようである。

 それにしても、満鉄王国の一員として、満人の上にあぐらをかき、のうのうと日を送っていたわれわれに押尾君があたえた精神的衝撃は大きかった。ボンヤリと今の生活に甘んじていてはならないという気持が、彼をとりまく私たちの間に生れたのである。

 さて、駅員をやめると決心してみて、自分に何ができるのかと自問すると何もないのである。金もなければ、トツー・トツーとやるほかに何の技能もない。そこで思いついたのが、まず中学卒業程度の学力をもつことであった。

 私は兄の手許にあった中学講義録と参考書を使って英語、代数、幾何を中心において勉強しはじめた。久保田君もおなじ方向でやりはじめていた。徹夜勤務の明けだけでなく、勤務時間中も夜間に仕事が少くなると作業台の上にテキストをひろげて勉強したのである。

 同僚たちが奇異の目で私たちの急変を見ていたが、そんなことにおかまいなくやった。この俄か勉強をいろいろと援けてくれたのは兄の文治である。大阪で工業学校に一年ほど通い、中退したのちも勉強をつづけていたので、結構私の質問に答えてくれた。兄がこんなことを言ったのを憶えている――「お前といっしょに寝るとかなわんよ、寝言にまで代数の方程式を言ったりするからナァ」と。

 半年ほどの間に、中学二、三年の課程を一応やり了えた。丁度その頃、奉天中学の三年の編入試験があることが判り、長兄の武太郎と次兄の文治が、「物はためしだ、受けてみろ」とすすめてくれた。

幸いこれに合格した。駅員をやめて中学三年に入学したのは十七歳で、十五、六歳の級友たちがあまりにも子供っぽくて変な気がした。入学して一年間は野球やテニスの選手をしたが、二年目はそれをやめて高校受験に取り組んだ。教師たちは私を特別の目でみて指導してくれ、「君のような人間には、特殊な教育をやっている甲南高校がむいている」とすすめてくれた。父は満州医大に入って医者になれと言ったが、医者になる気はさらさらないし、それにもまして、満人を奴隷扱いにする日本人の生活態度に強い反撥をもっていたので、何が何んでも満州を去りたいと思っていた。兄の文治が私の気持を理解してくれて、僅かの貯金の中から百円おろして、「これを持って行け」と渡してくれたので、それを懐に内地に向ったのである。

 その時の私は、受験に失敗しても満州には帰らないそと心にきめていたのであった。無茶な話で、日本一のブルジョア学校に、かりに合格したとしても、あとの学資はどうするのか、何の目算もないのである。この難題を解決してくれたのは、今は亡き二人の兄である。合格の通知に折り返して当座必要な金を送ってくれ、その後も援助をつづけてくれたのである。私の甲南時代の三年間を快適に過させてくれたのには、兄たちのほかに、甲南の尋常科で数学を教えていた佐藤菊之助先生、長兄の知人の洋画家の宇和川通喩さんの名を忘れることが出来ないのである。

           ◇

 駅員時代の友久保田敏君は、私とはかなり異った道を歩んだ。私が辞めたあとも、彼は奉天駅に勤務し、大正十五年の八月に退職し、そこで得た八百円ほどを懐うに郷里の山口県下の農村に帰り、母をつれて京都、奈良、大阪などの寺院めぐりをやったのち、自らは萩市に近い禅寺の庭掃除番に住みこんだ。そこに一年半程いたが、そのあいだに僧侶のやることをすっかり身につけた。のちに東京で会った時、「君が死んだら僕がお経をあげてやるよ」と言って大笑いしたことを憶えている。

 寺を去って彼が上京してきたのは、昭和三年の春だった。その頃、芝浦の海員組合支部でモーター・ボートの運転手をしていた従弟の許に身を寄せ、この従弟と協力して東京港内のタグボート(曳船)の船員の組合づくりをやったのである。その頃配布したガリ版刷りの新聞を見せてくれたが、見事な出来ばえで、これなら受取った労働者はきっと読むにちがいないと思ったのである。

 こうして久保田君の労働運動への第一歩がふみ出されたのである。その後は、誰もが味わったように、彼も逮捕、テロ、投獄のにがい経験をなめたのである。別の分野ではあったが、私もおなじ時代におなじような経験をなめて生き抜いた。二人は、十代の中頃に友となり、今、七十代の中頃に、おなじ目的を抱いて深い交りをもって生きている。およそ六十年の交友である。こんなことは、誰もが望みうることではないと思う。

 彼は、私が中学に入ったことを、羨むのではなく心から喜んでくれた。その頃、会うたびに「本代に不自由していないか、僕は給料取りだから、そんなことぐらいは何んでもないよ」と言ってくれた。これは甲南高校にいてマルクス主義の研究に本腰を入れはじめた大正十四年のことであったが、彼の好意に甘えて「資本論」を買ってもらった。それは、新潮社から出版された高畠訳の菊版背皮の豪華本四冊である。当時のかねで十五円ぐらいした。四、五十円の月給取りにはなかなかの大金だったが、彼はなんとも言わず送ってくれた。

 私はこの本をカウツキー版の原書と対照しながら勉強した。高校二年生の中頃から卒業までの一年半につくったノートは、のちに東大にきて吉山道三のペンネームを使ってひらいた「資本論講座」の講義に大変役に立ったのである。残念ながら、久保田君に買ってもらった本もこのノートも空襲で家が焼かれた時、ひとつかみの灰となってしまったのである。

            ◇

 今、机に向って六十年まえのことに思いをはせていると、ツートト()トツートツーツー()

と音響箱から繰りかえし呼び出しがかかっているような気がする。そして三十台ほどの通信機が並んでいる部屋の一隅に、トロツキー型の風貌の押尾先輩が立ち、そのまおりをわれわれ数名の少年駅員が取り囲んで先輩の言葉に耳を傾けている、といった状景が目に浮んでくるのである。

 押尾君を師として久保田君や私らが精神的に醒めはじめたあの一時期は、久保田君にとっても、また私にとっても、人生行路の最初の曲折点として忘れ去ることの出来ない深い意味をもつものであったのである。

                          (一九七九・四・一二)

 



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